ラジオの新たなかたち・私論 〔第18話〕

**昭和の終わりと時代の転換期20年(その2)**


〔永遠に続くと信じた経済成長からバブル崩壊へ〕

 80年代後半のバブル景気について触れておこう。「バブル景気」とは、86年から91年まで4年と3ヶ月続いた資産価格上昇と好景気のこと、またそれに伴う社会現象である。資産価格が一時的に泡のように膨らみ弾けてしまう様子からこのような呼び方をする。実体経済ではなく、資産の高騰による好景気なので、資産を持たない一般市民には無関係ではあった。しかし、資産の運用で資金を手にした多くの企業は、税務対策として新たな投資や厚生施設の購入、様々な交際費に資金を使い、企業内では浮れた気分が蔓延していたことも事実であった。

 この時期為替市場は、80年ごろは1ドル250円程度であったが、86年には120円の円高になり、輸出の後退と企業の東南アジアへの工場移植が急激に増加し、また国内の公共事業への投資が進んだ。「東京湾アクワライン」プロジェクトが発足したのもこの時期である。リゾート地開発が活発化も同時期で、リゾート法成立とともに、全国各地のリゾート開発や財的ブーム、消費ブームが過熱した。企業の資産価値として芸術品購入や一般消費者は新車購入、旅行など消費に走り、消費こそこの世の美徳と言わんばっかりのお金の使いようであった。20年近く続いた豊かな社会のあだ花といっていいかもしれない。

 こうした稀にみる世の浮れようは、後の長期不況を少しも予期することなく、ある日突然バブル景気の崩壊という事実を迎え、国民的な浮いた気持ちのツケは長い不況という形で経験することになる。こうした珍しい体験の時代に、民放ラジオはどんな活動をし、何を社会に提供していったのか、詳しく見ていく必要がある。なぜならば、この時期の体験が、この後続くことになり長期不況(失われた10年とも20年ともいわれる不況)と現在苦しんでいるラジオの衰退状況の発端を見て取れるかも知れないからである。


〔専門家による戦後史としての80年代〕

 80年代という時代は、社会全般にわたって戦後の大きな転換期であったといえそうだが、この時代に青春を過ごした人々が現在日本社会の中核を担っている。特に民放ラジオの経営者はこの世代が多いと思う。それだけに、自らの体験とともに、これからの社会を考え、民放ラジオの発想を豊かにして行くためには、80年代という時代を検証しておきたいものである。また、ブログのテーマ「新たなラジオのかたち」を考えるためにも貴重な年代である。大きな時代の流れとある時代の終わりに立つ80年代を、2人の専門家の捉え方を紹介しながら考えてみたい。

 昭和史を研究する半藤一利(作家)は、「昭和史/戦後編」(平凡社)で、40年周期で勃興と衰退を繰り返しているのが日本の近代史という視点の上からみると、明治時代の国家目標は富国強兵で、国家の機軸は立憲天皇制、このシステムはうまく機能し成功したが、その後、軍部を中心とするうぬぼれのぼせた権力者が天皇制を世界の中心であるかのように仕立て、国家目標をアジアの盟主にしようと幻想をいだき、結果として国家を滅ぼしてしまった。戦後の国家の機軸は平和憲法、国家目標は民主主義であったが、いつの間にか軽武装・経済第一主義となり、経済大国を完成させていく。しかしその後バブル崩壊で経済国家は崩れていくという。

 株価の最高値を記録し,DNP世界第2位を誇り経済大国となった日本、戦後から数えると1952年(昭和27年)独立してから40年目の1992年、その前の年にバブルが弾けてしまう。明治時代日露戦争に勝ち(1905年)、国家づくりに成功し、結果的にうぬぼれのぼせて国際的に孤立し、ついに世界を相手に戦争し滅びてしまう。丁度40年後であった。こうして40年周期をみると、1980年代は崩壊する最後の繁栄した10年で、過剰に自信をもって日本を動かした人々による、いわば第2の敗戦になってしまった。この40年周期説では2032年、後18年で迎えることとなる。現在の政治情勢、国際情勢、社会現象など、しっかりみつめていかねばならないが、不安要素が年毎に増えているような感がしてならないと思うのは私だけだろうか。(つづく)






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ラジオの新たなかたち・私論 〔第17話〕

**昭和の終わりと時代の転換期20年〈その1〉**


〔一億総中流といわれた80年代の社会諸相〕

 70年代の社会の動きと民放ラジオの歩んだ道について、長い時間をかけて記してきた。それは高度成長から安定成長へと時代の流れが変わり、社会生活の上で戦後という意識が薄れていく一方、テレビに押された民放ラジオが衰退を経験し再興を遂げていくという、ドラマチックな変遷があり、この歴史から現在衰退を経験している民放ラジオにとって立ち直る糸口が発見できるのではないかという理由からであった。この時期を振り返り、メディアの基本的なあり方のところで、これからのラジオに示唆を与えてくれる重要な視点を見出すことができる。この点については詳しく後述したいと思う。

 80〜90年代の民放ラジオを一言でいうならば、70年代に開発し発展させたメディア・イノベーションを更に進化させた時代であったことだろう。このラジオ展開と社会の繋がりを探っていくために、80年代の社会の動きを簡単に触れておきたい。

 1980年代は、歴史的エポックメイキングな出来事に遭遇した時代だったといえる。そのキーワードを幾つかあげてみよう。「中曽根政権」「デズニーランド開園」「日航ジャンボジェット機御巣鷹山墜落」「チェルノブイリ原発事故」「バブル景気」「昭和天皇崩御」「ベルリンの壁崩壊」と、時代を象徴するような社会的出来事が出来している。しかし社会全体としては安定した雰囲気のなかで、レジャーに浮れる国民、経済的満足こそすべてであるような生活感覚が蔓延していた時代であった。特に後半の「バブル景気」に乗った世相は、後にやってくる長期不況の原因を内包しながら進行していたのである。

80年代は経済的に安定成長を続け、後半は大型の景気拡大が持続された時代である。政治では中曽根内閣が中心となり、「戦後政治の総決算」をスローガンとして取り組んだ。このスローガンは後に著した「自省録」では自民党内のバランスの取れた政治から、強力なリーダーシップを持った総理大臣という政治手法といっている。具体策では「臨時行政改革審議会」の発足と提案の実施、国営企業の民営化(電電・専売・国鉄など)など着手する。経済面では輸入の拡大や規制緩和などを促進させ、後のバブル経済へと繋がっていく。

 規制緩和国営企業の民営化は、「大きな政府」から「小さな政府」を提唱する新自由主義ネオリベラリズム)の政策の1つであるが、中曽根内閣は、財政赤字で苦しんでいたイギリスのサッチャー元首相やアメリカのレーガン元大統領が採用した新自由主義市場原理主義を路線に近い政策を採用していく。特に日米安全保障政策で日米両国の強化を図った中曽根首相は「ロン・ヤス」関係と呼ばれるほど親交を重ね、5年間に12回の会談を開いている。この間、重要な防衛政策、経済政策などを決定していった。新自由主義については後に触れることにする。

 国民の生活はどうだったのか。70年代の2度に渡る「オイルショック」を切り抜け、安定成長を遂げていた80年代は、国民にとって「豊かさ」を実感する環境が進んでいた。ある銀行が84年にサラリーマンの持ち家について調査したところ、大都会の東京大阪に住む30代が37%という結果を出している。地方は持ち家率が高いが、都会に限定しても4割近くの人が持ち家である結果は、「豊かさ」の象徴ともいえるであろうか。都会で結婚する人はマンション住まい、あるいは郊外の一軒家に住むことが普通に受け止められていた。

また家族における夫婦の役割も変化して、夫が家事や育児の手伝いをするのも普通の週間となってきた時代、更に職場では男女雇用機会均等法の成立に伴い、男女の労働条件がかなり変化してくる。職場でも家庭でも男女関係の意識に変化が生じていった。たとえば「現代日本人の意識構造〔第6版〕」(NHK調査)によると、「父親は仕事、母親は家庭」という(昭和の家族的)性役割分担では79年38%に対し93年には20%に減少、女性で「結婚後も仕事を継続した方が良い」という両立は78年27%に対し93年37%に増加している。日本人の社会意識がポスト高度成長の70年代から80年代の20年で、夫が妻に、父親が母親に優先する昭和型家族像は確実に崩壊していった時代であろう。(つづく)







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〔第16話〕ラジオの新たなかたち・私論


** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 6〉**


 前項の〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム、〈2〉ラジオ評価と聴取率調査、〈3〉民放FMラジオの誕生と普及、についてレポートしたが、もう一つ〈4〉民放連「ラジオ委員会」とその活動、について触れておきたい。


〈4〉民放連ラジオ委員会の活動

 60年代初頭の民放ラジオは、テレビの影響により急速に事業規模が低下、苦難の道を歩んでいた。民放連ではラジオ復興を目指し「ラジオ強化委員会」を設置、各局は人材を派遣し様々な施策を提案し実施していった。その成果によって60年代後半にはラジオ各局とも事業の回復を実現し、70年代には安定成長期に入ることができた。「ラジオ強化委員会」は大きな役割を果たすとともに、新たな環境変化に対応する必要が生まれてきた。そこで、この委員会を発展的移行として71年4月に「ラジオ委員会」と改組した。民放連放送業務部に置かれ事務運営を担当することになった。

 新たな「ラジオ委員会」は70年代のラジオの方向性を見出すべく、専門家を交えながら民放ラジオの社会におけるポジショニングとその戦略戦術を練っていった。71年12月に発表された報告書には次のような方向性が示されている。まず民放ラジオの位置づけとして「コミュニティ・ステーションとしてのラジオ」を掲げ、このコンセプトを実現するために「これからのラジオは全地域住民のコミュニケーションの軸として発展しなければならない」という視点を打ち出している。いま考えると誠に斬新で進取の気象に富んだ発想であり、21世紀のラジオ像を考える上で重要な示唆を与えてくれる。この点は当ブログの核心となるもので、しばらく後に詳しく触れ、新たな提案をしてみたいと考えている。

 この報告書にもう少し触れると、このレポートの視点は当時注目されつつあった「ニューローカリズム」に視点を当て、地域メディアとしての役割を打ち出したもので、かなり先見性のある発想であった。地域ラジオの特性を(1)生活レーダーとしての機能(レーダー性)(2)人々の対話を活性化する機能(広場性)として示し、「この2特性を日々の放送に十二分に生かしつつ、人びとのコミュニティ意識を、どうプロモートしていくか、それも閉ざされた地域エゴをではなく、外に向かって身を開いたコミュニティ意識をどうプロモートしていくかが、民放ラジオにとっての最大の課題である」と報告している。

 そして翌72年から「移動研究会」を開催し、「コミュニティ・ステーションとしてのラジオ」から「コミュニティ・マーケティングの実践と展開」に広げて各局とともに実施している。これはその後のラジオセミナーのメインテーマとして取り上げられ、実践的な検証を加えて深化させていった。70年代の民放ラジオはラジオ委員会が提示した「コミュニティメディア」という位置づけが徐々に浸透し媒体力をはかる理論的支柱となったのである。

 上記の内容は「民間放送30年史」(民放連発行)を参考としているが、現在の民放ラジオを考える時、70年代のような理論的支柱となるものが何もない。ない以上さまざまな方向性が提案されても、議論百出ばかりで方向性は見い出せていない。これが民放ラジオの現状だが、過去の歩んだチャレンジを調べてみると、何と勇気があり進取の精神に富んでいたか驚かされる。民放ラジオ誕生30年という期間はやはり若い時代、若さが充ちていた時代といえるのではないだろうか。それから30年、冬の時代が訪れている。

 ラジオ委員会の活動はさらに広がっていく。その1つがラジオメディアのPR活動である。各種「公共キャンペーン」の実施や「ラジオ月間」を設定し、全国展開を行なっている。「公共キャンペーン」では73年5月から展開された「ベトナムの子供らに愛の手を」だ。キャンペーン・ソングや特別番組の放送は勿論のこと、募金活動では1億3,000万円余の義援金を集めるという大きな成果を得た。74年には日本赤十字社と連携した「はたちの献血」(第1回)が民放ラジオ全社で実施され、献血において前年比率13.6%の増加という実績も上げた。大きな成果は日赤はじめ各方面から高く評価された。このキャンペーンはその後も継続していった。

 「ラジオ月間」の方は、75年度から毎年10月に定められ、イベントの実施、統一番組の全社放送、ラジオセミナーの3本柱として、民放ラジオの集中的PRが実施され、その後も継続していった。実施された3本柱の内容をピックアップしてみると、第1回(75年)はイベント「災害から市民を守る」特別番組「戦後30年・日本人を育てた歌」ラジオセミナー「50年代のラジオを考える」、第4回(78年)はイベント「各社自主企画」特別番組「きみはUFOをみたか〜子どもの未来の詩〜」ラジオセミナー「ラジオ新世紀への挑戦」などとなっている。いずれも勢いを感じる。

 こうしてみてくると、「ラジオ委員会」が取り組み全国のラジオ局が連携した「公共キャンペーン」あるいは「ラジオ月間」は、民放ラジオというメディアを対外的に強くPRするとともにラジオ業界という内に向かってラジオの可能性を探り実践するバイブレーションを与えていったといえる。70年代の民放ラジオは業界が1つになってメディアの価値を高め、社会に影響力を持つメディアであることを、身をもって実践していった輝ける時代ではなかったろうか。(つづく)







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;”>〔第15話〕ラジオの新たなかたち・私論

** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 5〉**


他に指摘しておきたい70年代の放送活動

70年代の民放ラジオは、ラジオのあり方自体に変革をもたらしただけに、触れておかねばならない事象が多い。これまでエポックメイキングとなった政策を紹介してきたが、それ以外のもので大切な事象に触れておきたい。それは〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム、〈2〉ラジオ評価と聴取率調査、〈3〉民放FMラジオの誕生と普及、そし〈4〉民放連ラジオ委員会とその活動、などである。

〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム
 民放ラジオが60年代に、テレビの影響を受けて苦難の道を歩む最中、2系統の全国ネットワーク組織が誕生する。65年5月、TBSを基幹局とするJRNとLF&QRを基幹局とするNRNである。全国のリスナーが“注目する番組”を聴くことを可能とするこの組織は、ラジオ復活の大きな手段となった。プロ野球のナイター中継番組はその代表的なものだが、ラジオジャーナリズムとして注目させ発展させていく報道情報番組や共同キャンペーン活動などを上げておきたい。

 その代表的な番組がJRNのニュース番組「ニュースハイライト」であり、NRNの「ニュースパレード」などであった。これらの番組はテレビとの差別化を意識した放送機関としてラジオの持つ機動性、速報性、柔軟性といったメディア特性を前面に出した番組づくりに徹し注目を集めた。こうしてテレビとは異なったラジオジャーナリズムを提供することによって大きな成果を築いていった。一方、ローカル放送でのラジオジャーナリズムも各局が力を注ぎ、良質な報道番組を放送し地域リスナーから好評を得たことも、ラジオの報道情報分野における高い評価に繋がっていった。

 和歌山放送では76年「海の気象ニュース」をスタートさせた。紀伊水道から潮岬沖、熊野灘にかけての海上気象情報、 漁業情報という地域性の強い情報番組を放送した。これは1つの例に過ぎないが、各局とも地域に密着した情報を様々な視点から取り上げていった。各自治体の選挙報道であり、高校入試速報あるいは地域の社会問題などを取り上げ、リスナーに問題提起し、地域ジャーナリズムの創造メディアとしてその地位を築いていったのである。「民間放送30年史」(民放連発行)には「市民と一体となって問題解決に取り組む姿勢を確立したのも、40年代後半のラジオジャーナリズムの特筆される事項であろう」と記している。

2〉ラジオ評価と聴取率調査
 70年代の民放ラジオは営業収益の面で著しく伸長しているが、リスナーの増大と強く結びついている。それはセット・イン・ユースの上昇からはっきり知ることができる。聴取率調査で分かるセット・イン・ユースは、全人口(地域によって数が異なる)に対するラジオに接している人の割合をいうが、これはラジオの価値、ラジオの力を表している。電通ラジオ聴取率調査によると、東京地区は73年の夏期9.3%、冬期8.0%に対して74年夏期10.3%、冬期10.2%と夏冬通じて10%台に乗せている。この数字が現在の6%で推移している状況と比べると、いかに高い数字かが分かろうというものだ。

 名古屋地区では73年が9.9%に対して74年が11.7%(年1回調査)、九州地区も73年の夏期12.4%、冬期9.8%に対して74年は夏期12.4%、冬期11.3%と冬期が伸びている。(大阪地区は聴取率ではなく1日平均の聴取時間量で表しているので、同様の比較はできない。)聴取率にみるセット・イン・ユースはどこの地区も夏高冬低の傾向があるが、これは主にナイター中継番組があるかないかによると思われる。冬期がアップしているということは、ナイター・オッフの番組が如何に活躍しているかがわかる。

 このようにセット・イン・ユースの上昇は広告メディアとしての存在の高さにも通じ、74年の広告費はテレビ・新聞・雑誌と比べてラジオが111.7%と、最も高い伸び率を示している。75年から80年までの6年間を平均しても平均113%の成長を遂げている。ラジオの評価の高さが判断できる。この評価は広告メディアとしての高さだけではなく、ラジオメディアの影響力の高さとして多くの事例が示している。

〈3〉民放FMラジオの誕生と普及
 70年代のラジオ界の出来事としてもう一つの動きは、民放FMラジオが本放送を開始したことであろう。民放FMラジオが実験放送を開始したのは1958年に遡る。東海大学が免許を取得してその年の12月26日に電波を発射する。NHKは丁度一年前の1957年12月24日放送開始している。そして、民放FMラジオとしてスポンサー提供ができるようになったのは63年暮れで、東海大学にモノラル放送の実用化試験局とステレオ放送の実験局(スポンサー提供は不可)として免許が与えられ、NHKとともに日本のFMラジオの開拓と普及に尽力する。

 東海大学の放送局名は〈東海大学超短波実用化試験局〉通称〈FM東海〉として放送した。FM東海の送信所とスタジオは渋谷区富ヶ谷東海大学施設内に設置、その後スタジオは港区虎ノ門に移った。東海大学がFM波を申請した理由は、科学、教育、福祉に貢献する新たな放送局づくりであった。電波は1kwの出力で東京都の一部をカバーし、放送番組では望星通信高校を放送するとともに、熱心なオーディオファン、音楽ファンを開拓する良質な音楽番組を放送していった。

 全国的には65年NHK−FMが26局開局し、FMファンを広げていった。そして民放では69年に「FM愛知」が開局、翌年の70年には「FM大阪」「FM東京」「FM福岡」がそれぞれ開局し、主要機関地区に民放FMラジオが出揃ったのでる。この結果、大都市圏における民放ラジオはAM対FMという構図が出来上がり、それぞれのメディア特性に合致した番組編成と営業展開を実施、70年代の民放ラジオを彩ったのである。なお、本格的なAM対FMの事業競合は、民放FMの全国的開局をみる80年代に入ってから現れてくる。(つづく)






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〔第14話〕ラジオの新たなかたち・私論

** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 4〉**

〔数字で見る深夜放送の威力〕
 70年代の民放ラジオの大きな特色の1つに「深夜放送」であったことに異論はないだろう。若者に絶大な影響力を築いた様子を数字でみてみよう。72年(昭47年)文化放送(日本リサーチセンター調査)によると、深夜放送を「よく聞く」「ときどき聞く」が12〜14歳は52.7%、15〜17歳は78.8%、18〜21歳」は71.3%という圧倒的な数字を示している。首都圏の調査であるが、「深夜放送」が若者にとってどんな存在であったかがよくわかる。

 また全国的にみても深夜に起きている若者が多かった。少々遡るが、NHKの「国民生活時間調査」(1965年)によると、高校生が〈午前零時台〉に起きている人が9.9%に〈午前一時台〉が5.4%、〈午前2時台〉が3.5%、〈午前3時台〉でも2.9%となっている。全国調査なので首都圏より低いように感じられるが、高校生という若者にとっての深夜時間は大きな意味を持っていた。恐らく「深夜放送」聴取という位置づけはかなり高かったように思われる。この世代前後(団塊の世代前後)が現在のラジオの中心的リスナーになっていると思うと、当時の「深夜放送」の役割がいかに大きかったかがわかる。

デイタイムの番組開発とパーソナリティ〕
 民放ラジオは60年代後半から70年代前半にかけて、「生ワイド番組」が主流となる。テレビの影響下にあって苦難の時期を経験し、その打開策として打ち出されたパーソナリティ中心主義、それは直接「生ワイド番組」へと繋がっていった。いい方を変えるとラジオの新しい領域を開拓したともいえる。この開拓方法は、一足早くテレビ影響下の苦しい時代を経験し、その打開策をパーソナリティの威力によって乗り切ったアメリカを参考にしたもので、日本のラジオに適したパーソナリティ像を創り上げたのである。

 朝、昼、夜、深夜と24時間パーソナリティの名前を冠としたワイド番組が流れた。番組の比重が、企画中心からパーソナリティ中心へと変わったのである。その代表的な例をあげてみよう。「こんにちワ近石真介です」(東京放送)、「山谷親平のお早うニッポン」(ニッポン放送)、「芥川隆行のオハヨー!日本列島」(文化放送)「おはようパーソナリティ・中村鋭一です」(朝日放送)、「阿部牧郎とその一味」(大阪放送)、「おはよう小城まさひろです」(九州朝日放送)などである。こうしたパーソナリティ中心の番組づくりは全国のラジオ局へ広がっていったのは当然であったろう。

 名前を冠としたラジオ番組は、現在では当たり前のように映るが、この時代に個人がラジオを聴くようになったとこと、個人聴取こそがラジオのあり方を変え、パーソナリティ中心の番組を登場させ主流にしていったが、パーソナリティとリスナーのコミュニケーションがマスであるけれどもパーソナルに繋がるというラジオならではのコミュニケーション形態=マス・パーソナルコミュニケーションが出来上がっていく聴取形態を生み出し、ラジオ番組を大きく変えていったといえる。

〔個人の聴取形態の多様化の進行〕

 この背景にはもう一つの物理的環境があった。60年代初頭にラジオ受信機が真空管式からトランジスタ式に代わり、携帯化が可能となり、いつでもどこでも聴取可能な時代になったという背景がある。50年代の半ばに登場したトランジスタラジオは60年代に入り急速な普及をみる。真空管式ラジオ受信機(据え置き型ラジオ)の生産を追い越したトランジスタラジオは60年には生産1000万台を超え、その後商業用自動車から自家用車にも搭載されるようになる。

 70年代に入り、ラジオの小型化やラジカセ(ラジオカセットレコーダー)など製品が各社から発売され、急速に普及していく。60年代はオープンテープのレコーダーが中心だったが、70年代に入りカセットレコーダーが急速に普及する。民放FMラジオの開局とともに、ラジオ付カセットレコーダーはエアチェックブームを引き起こしたことは、1つの社会現象となったほどである。

 個人聴取は、ラジオ受信機の小型化でいつでもどこでも聴ける環境やラジカセの普及により録音して聴くという習慣が広がっていく。ラジオのながら聴取拡大の一方、録音して聴くという傾聴型聴取形態も復活し、自己聴取の多様化が進んでいった。70年代ラジオの黄金時代はこうした聴取形態が広く深く浸透していった。(つづく)



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〔第13話〕ラジオの新たなかたち・私論

** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 3〉**

〔70年代の番組編成と注目された番組群そして民放連の活動〕

 テレビの急速な普及により大きな影響を受け、経営的に苦心していた民放ラジオは、1960年代後半から1970年代にかけて独自の番組編成を構築し、再起を図っていった。また、同じラジオでもFM放送が本格的に放送開始し、ラジオ多様化と特色ある番組編成が展開されていく。大都市ではAM対FMという構図のなかで、AMは媒体開発に積極的に取り組んだ。たとえば、内容のあるトーク番組へ、パーソナリティの育成、地域メディアとしてのラジオ強化など番組編成に取り入れていく。

 一方FMは、音楽中心の番組編成により新たなリスナーを獲得していった。そうしたなかで民放連ラジオ委員会はラジオ統一キャンペーンを展開、“はらちの献血”キャンペーンは75年から10年間継続され、ラジオの社会的貢献を世間にアピールした。また、媒体開発の一環としてCM効果と広告料の相関関係を説明する「リーチ&フレキュエンシー(到達と頻度)」理論の導入と実用化あるいは消費者側に立った調査分析なども資料化し、広告主への説得を図っていった。

 その結果、広告メディアとしてテレビと異なるラジオメディアが定着していった。民放ラジオのこうした対策がラジオ復活の大きな原動力となり、テレビ主流の時代のなかで、民放ラジオの新たな存在を構築したのが70年代のラジオといえる。また70年代はポスト高度経済成長という時代にあって、人々は「モーレツからビューティフル」へと意識が変化した。個人のライフスタイルが求められ、豊かさのなかに個人的趣向を追求する生活が広まった。民放ラジオがリスナー層をクラスタ―に分類できたのは、豊かさに支えられた消費者の個人化という社会的背景が広がっていったからである。

 音楽で例えると、団塊の世代が大人になり、音楽への関心が飛躍的に方高まったことから、個性豊かな“ニューミュージック”という新たな邦楽を生み出して行ったことも同じ背景を持つ。この結果レコード産業が成長するとともに、新たに登場したFMラジオに音楽ファンが殺到する。「FMfan」などFM雑誌が3誌も発行され、100万部近い発行部数を誇っていた。ポスト高度経済成長時代の消費者が個人のライフスタイルを求める傾向がAM/FMのラジオを支えていたといっていい。

 ここから民放ラジオがどのような番組を放送し、支持を集めていったのか、具体的に取り上げたいと思う。民放ラジオがテレビによる低迷から抜け出し、復活を遂げた66年ごろからラジオ編成は大きく変わり、その基礎となったポイントがテレビではできないラジオの優位性を番組化したこと、すなわち番組がマスではなく限定多数へのアプローチするため、ワイド番組と魅力あるパーソナリティに焦点を当てた番組づくりだ。70年代はそれら60年代後半に生み出された番組要素を強化進展させた。その例を具体的にあげよう。

 (a)オーディンス・セグメンテーションの更なる追求、(b)重要性を増すパーソナリティと新たな発掘育成、(c)ワイド番組の充実と生活情報へ力点、(d)主婦・ドライバー・若者など新たなリスナーの開拓と進化、(e)地域ラジオとして地域リスナーの聴取拡大、といった言葉が当てはまる番組編成に構築されていった。まずビジネスマン、オフィスレディを対象として朝ワイド番組とパーソナリティの登場、日中の主婦・ドラーバー対象としたワイド番組と女性に好まれるパーソナリティの育成、深夜の若者向け番組群などなど、全体が生放送を前提とした番組編成に組まれていった。

 こうした編成のなかで特質されるのが「JRN」と「NRN」に代表されるラジオネットワークの役割である。民放ラジオの全国放送を可能としたこれらのネットワークは「ナイター中継番組」「ニュース報道番組」「深夜放送」に力を発揮した。現在の民放ラジオもそうであるが、全国放送と地域放送の2つの役割を果たすことにより、ラジオの影響力を発揮できるメディアとなって行った。70年代に「深夜放送」の基礎が創られていったのである。


〔70年代の注目された番組群〕
 まず、最初にあげねばならないのは、民放ラジオが開拓の目標としたリスナー層の1つ「ヤング・ジェネレーション」の開拓があったが、これはすでに知られている通り各局が取り組んだ「深夜放送」である。60年代の後半に番組開発され、徐々に人気をあげていく。その代表格がニッポン放送の「オールナイトニッポン」、東京放送(TBS)の「パック・イン・ミュージック」、文化放送の「東京ミッドナイト」(後セイ・ヤング)などで、ネットワークを通じて全国に放送されていった。

 各番組のパーソナリティ変遷をみると60年代と70年代にある変化が生まれている。 60年代の代表的パーソナリティは糸居五郎高崎一郎土居まさる亀淵昭信、斎藤安弘、斎藤務、落合恵子野沢那智白石冬美、増田貴光、戸川昌子田中信夫北山修矢島正明といったアナウンサーや俳優声優が中心となって音楽を中心とした番組が展開された。70年代になると、パーソナリティの性格が各局とも大幅に変化する。「オールナイトニッポン」は異色の芸人・タレントを起用した。小林克也泉谷しげるあのねのねカルメン笑福亭鶴光タモリ所ジョージつボイノリオなど、「パック・イン・ミュージック」は山本コータロー、愛川欣也、河島英五南こうせつ小室等杉田二郎など、「セイヤング」は岸田智史谷村新司吉田拓郎、グレープなどだ。

 一言でいえば、60年代のアナウンサー中心から面白トークやタレント性を出せるパーソナリティへのシフト変更である。それは深夜=音楽メディアから深夜=共感メディアへのチェンジであったといえる。深夜自室に1人でいる若者が、信頼する兄貴分のパーソナリティに可笑しな話を聴かせてもらったり、悩みを聴いてもらったり、同世代の出来事に共感したり、と若者生活と一体になった番組づくりが爆発的なブームを起こし、若者への大きな影響力を持つに至ったのだった。(つづく)






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〔第12話〕ラジオの新たなかたち・私論

**現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 2〉**

〔70年代の総広告費に占めるラジオの位置と営業展開〕


 70年代のメディアは、テレビ・新聞・ラジオ・雑誌という現在4大マスメディアといわれる形がほぼ出来上がった時代といえるが、このことは日本の広告費のシェアをみると分かりやすい。日本の総広告費は1960年頃から国民総生産の1%前後に定着している。たとえば、1970年では73兆円のGNPに対して総広告費は7500億円(1.03%)、10年後の1980年には3倍成長してGNP235.7兆円に対して総広告費2.28兆円(0.97%)となっている。因みに2012年のGNPは475.87兆円に対して総広告費は5.89兆円(1.24%)とである。

 では、総広告費のなかでラジオ広告費の占める割合はどのぐらいか。70年代10年間の総広告費は3倍に伸び、毎年平均18%成長した時代である。そのなかでラジオのシェアは10年間4.6%〜5.0%の推移である。雑誌は5.3%〜5.6%、ラジオよりちょっと高いがほぼ同じ状況である。70年の新聞が35%から徐々に下降、逆にテレビが32%から徐々に上昇していく。ほか20%前後が屋外広告などそのほかの広告費である。こうして総広告費からラジオの位置づけをみると、70年代のラジオは5%メディアであったといえる。広告業界でラジオが3%メディアといわれたのは少々後の時代である。

 ラジオの5%メディアと社会的影響力とは相関関係にあるとはいえないが、聴取率調査における聴取人口、あるいは実際の影響力として現れた数字や成果を総合的に判断しないと社会における影響度は定まらない。日本の総広告費に現れた数字が5%である。しかし、民放ラジオの経営資源であるラジオ広告費は、一般企業からみたメディア価値として位置づけられているのは現実であり、ラジオ局の経営規模を位置づける数字でもあった。その意味で5%メディア、後の3%メディアという表現はラジオ業界の規模を判断できる数字といえなくもない。

 さて、民放ラジオの復活はラジオ広告費の復活であるが、ラジオ営業としてどのような政策を推進し、結果的に広告メディアとして復活していったのであろうか。民放ラジオの営業展開を見てみよう。テレビの急速な普及によって低迷を余儀なくされたラジオの1965年以降、民放ラジオ局の経営者と社員が一体となって、ラジオメディアの価値を再認識させる活動に奔走した。それ1つがラジオ資料でリスナーの研究と調査、あるいはスポンサーの販売に結びつくケーススタディづくりなどである。

まず、最初に触れなければならないのは、ラジオ衰退の最中に民放連が取り組んだ活動は「ラジオ白書」(1964年)を刊行したことであろう。ラジオメディアとして再認識のきっかけとなったもので、タイトルが「ラジオ白書――ラジオに変貌と再認識」である。その内容は(1)ラジオの変貌と実態を明らかにすること、(2)ラジオの番組と事業の両面から実態を描くこと、(3)ラジオ復興の問題点を指摘すること、の3点である。特に(3)で触れられている従来の見方―ラジオはマス・コミュニケーション「不特定多数」を対象にしたメディアではなく、「限定多数」を対象としたマス・パーソナル・コミュニケーションとみるべきであるという考えを提起したことであろう。

 これは後に番組編成で取り入れられる「オーディエンス・セグメンテーション」(リスナーを属性によって区分する方法)や「ラジオ聴取の個人化」、あるいはテレビに不向きで、ラジオの特性となった「ながら聴取」などラジオの特性や機能を新たに生み出していった。それを営業分野では、スポンサー側の「マーケティング・セグメンターション」と結合させる企画開発と実施、地方局では「エリア・マーケティング」に繋がる調査や番組と連動したイベントの開発など積極的に生み出し展開していった。

 たとえばTBSラジオ(東京放送)はラジオ調査シリーズ「マーケットに浸透するラジオ」文化放送「市場におけるラジオの位置」、朝日放送の資料「12の誤解・ラジオは変貌しつつある」、東海ラジオ「ドライバーマーケットと東海ラジオ」といった資料を次々に作成し、広告主、広告代理店を積極的に説得していった。これらの資料はマーケティング理論を背景にしたものや、市場調査の結果からラジオの有効性を示したものなど、科学的な説明や分析が施された内容であった。

 こうして民放ラジオ業界全体の努力が実り、広告代理店は積極的なラジオ営業を展開するようになり、いっぽうスポンサーである広告主は「ラジオ営業は理論武装した存在」として認識され、ラジオへの出向を再開していったのである。ここではラジオ営業の面から触れているが、番組編成における「オーディエンス・セグメンテーション編成」「ワイド番組とパーソナリティの活躍」「主婦層の番組開拓」「深夜放送による若者開拓」そして「2系列のネットワーク組織」など、営業展開と表裏一体となって新しいラジオメディアを構築したところに70年代に謳歌する民放ラジオの基礎が生まれていることを知っておきたい。(参考資料は民間放送年鑑、電通年鑑、民間放送30年史など。)(つづく)






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