;”>〔第15話〕ラジオの新たなかたち・私論

** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 5〉**


他に指摘しておきたい70年代の放送活動

70年代の民放ラジオは、ラジオのあり方自体に変革をもたらしただけに、触れておかねばならない事象が多い。これまでエポックメイキングとなった政策を紹介してきたが、それ以外のもので大切な事象に触れておきたい。それは〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム、〈2〉ラジオ評価と聴取率調査、〈3〉民放FMラジオの誕生と普及、そし〈4〉民放連ラジオ委員会とその活動、などである。

〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム
 民放ラジオが60年代に、テレビの影響を受けて苦難の道を歩む最中、2系統の全国ネットワーク組織が誕生する。65年5月、TBSを基幹局とするJRNとLF&QRを基幹局とするNRNである。全国のリスナーが“注目する番組”を聴くことを可能とするこの組織は、ラジオ復活の大きな手段となった。プロ野球のナイター中継番組はその代表的なものだが、ラジオジャーナリズムとして注目させ発展させていく報道情報番組や共同キャンペーン活動などを上げておきたい。

 その代表的な番組がJRNのニュース番組「ニュースハイライト」であり、NRNの「ニュースパレード」などであった。これらの番組はテレビとの差別化を意識した放送機関としてラジオの持つ機動性、速報性、柔軟性といったメディア特性を前面に出した番組づくりに徹し注目を集めた。こうしてテレビとは異なったラジオジャーナリズムを提供することによって大きな成果を築いていった。一方、ローカル放送でのラジオジャーナリズムも各局が力を注ぎ、良質な報道番組を放送し地域リスナーから好評を得たことも、ラジオの報道情報分野における高い評価に繋がっていった。

 和歌山放送では76年「海の気象ニュース」をスタートさせた。紀伊水道から潮岬沖、熊野灘にかけての海上気象情報、 漁業情報という地域性の強い情報番組を放送した。これは1つの例に過ぎないが、各局とも地域に密着した情報を様々な視点から取り上げていった。各自治体の選挙報道であり、高校入試速報あるいは地域の社会問題などを取り上げ、リスナーに問題提起し、地域ジャーナリズムの創造メディアとしてその地位を築いていったのである。「民間放送30年史」(民放連発行)には「市民と一体となって問題解決に取り組む姿勢を確立したのも、40年代後半のラジオジャーナリズムの特筆される事項であろう」と記している。

2〉ラジオ評価と聴取率調査
 70年代の民放ラジオは営業収益の面で著しく伸長しているが、リスナーの増大と強く結びついている。それはセット・イン・ユースの上昇からはっきり知ることができる。聴取率調査で分かるセット・イン・ユースは、全人口(地域によって数が異なる)に対するラジオに接している人の割合をいうが、これはラジオの価値、ラジオの力を表している。電通ラジオ聴取率調査によると、東京地区は73年の夏期9.3%、冬期8.0%に対して74年夏期10.3%、冬期10.2%と夏冬通じて10%台に乗せている。この数字が現在の6%で推移している状況と比べると、いかに高い数字かが分かろうというものだ。

 名古屋地区では73年が9.9%に対して74年が11.7%(年1回調査)、九州地区も73年の夏期12.4%、冬期9.8%に対して74年は夏期12.4%、冬期11.3%と冬期が伸びている。(大阪地区は聴取率ではなく1日平均の聴取時間量で表しているので、同様の比較はできない。)聴取率にみるセット・イン・ユースはどこの地区も夏高冬低の傾向があるが、これは主にナイター中継番組があるかないかによると思われる。冬期がアップしているということは、ナイター・オッフの番組が如何に活躍しているかがわかる。

 このようにセット・イン・ユースの上昇は広告メディアとしての存在の高さにも通じ、74年の広告費はテレビ・新聞・雑誌と比べてラジオが111.7%と、最も高い伸び率を示している。75年から80年までの6年間を平均しても平均113%の成長を遂げている。ラジオの評価の高さが判断できる。この評価は広告メディアとしての高さだけではなく、ラジオメディアの影響力の高さとして多くの事例が示している。

〈3〉民放FMラジオの誕生と普及
 70年代のラジオ界の出来事としてもう一つの動きは、民放FMラジオが本放送を開始したことであろう。民放FMラジオが実験放送を開始したのは1958年に遡る。東海大学が免許を取得してその年の12月26日に電波を発射する。NHKは丁度一年前の1957年12月24日放送開始している。そして、民放FMラジオとしてスポンサー提供ができるようになったのは63年暮れで、東海大学にモノラル放送の実用化試験局とステレオ放送の実験局(スポンサー提供は不可)として免許が与えられ、NHKとともに日本のFMラジオの開拓と普及に尽力する。

 東海大学の放送局名は〈東海大学超短波実用化試験局〉通称〈FM東海〉として放送した。FM東海の送信所とスタジオは渋谷区富ヶ谷東海大学施設内に設置、その後スタジオは港区虎ノ門に移った。東海大学がFM波を申請した理由は、科学、教育、福祉に貢献する新たな放送局づくりであった。電波は1kwの出力で東京都の一部をカバーし、放送番組では望星通信高校を放送するとともに、熱心なオーディオファン、音楽ファンを開拓する良質な音楽番組を放送していった。

 全国的には65年NHK−FMが26局開局し、FMファンを広げていった。そして民放では69年に「FM愛知」が開局、翌年の70年には「FM大阪」「FM東京」「FM福岡」がそれぞれ開局し、主要機関地区に民放FMラジオが出揃ったのでる。この結果、大都市圏における民放ラジオはAM対FMという構図が出来上がり、それぞれのメディア特性に合致した番組編成と営業展開を実施、70年代の民放ラジオを彩ったのである。なお、本格的なAM対FMの事業競合は、民放FMの全国的開局をみる80年代に入ってから現れてくる。(つづく)






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