ラジオの新たなかたち・私論 〔第29話〕

     このブログは「民放ラジオの行方」にスポットを当てて書いています。
     現在は民放ラジオ60年の姿を社会の歩みと共に振り返っていますが、
     この項は“失われた20年”の社会潮流についてスポットを当てます。



ミレニアムを挟んで我々が歩んだ時代の社会潮流を振り返る 《 Part3 》


〈 経済分野:経済成長の停滞とグローバル化の波 〉


 失われた20年の経済について触れるのは容易ではないが、戦後の経済を2つに分けるとしたならば、1945年からスタートした戦後復興期そして高度成長期へ、これはアメリカに追いつき追い越せの姿勢で発展してきた時期だったが、1980年、特にバブル崩壊の1990年以降は、世界第2位の経済大国から転げ落ちるように経済成長は行き詰まり、苦難の道を歩むことになる。言い換えると、1990年以降はこれまでの高度成長と安定成長を遂げた時代の社会システムに大きな変動が生まれ、新たな社会形態へ移行しなければ適合しない時代に突入していたといえる。

 その変動はバブル崩壊という大きなアクシデントから始まる。80年代中頃から変化の目は出始めていたが、バブル崩壊によって庶民には明確になる。これまで高騰していた株価や不動産価格が暴落し、各企業が抱えていた金融資産や不動産資産が不良債権化してしまったのだ。融資していた金融機関が次々と破綻、庶民にとって潰れないはずの銀行が潰れるという大きなショックであった。深刻化する不良債権問題、破たんする大手金融機関、不況の度合いを深めていく実体経済、90年代の日本経済はにっちもさっちもいかぬ状況を呈した時代である。しかしその状況が2000年に入っても続くことになり、失われた10年が20年と呼ばれるようになる。

 不良債権を抱えた銀行は、1995年兵庫銀行の破綻をきっかけに、87年から88年にかけて大手銀行、大手証券会社が次々に倒産する。北海道拓殖銀行日本長期信用銀行、日本試験信用銀行、山一證券、三洋証券などである。こうした大手銀行の倒産はメインバンクとしていた企業にも多大な影響を与え、倒産する企業も続出した。住専の破綻も一般市民を困惑させた。住専住宅金融専門会社:個人向けの住宅ローンを主に取り扱う貸金業)は7社あったうち、その6社が破綻するとあって、政府も対策として資金を融資していた農林系金融機関や銀行を保護するため公的資金が注入していった。

 1994年の流行語大賞で特選造語賞を受賞した「就職氷河期」は、企業倒産や企業縮小のあおりを受け、求人倍率が上昇し就職できない人々が多数生まれた。1994年〜2004年頃の期間である。企業の雇用抑制である。これは終身雇用を重視した企業社会が新規雇用を抑制したことによるが、新規雇用の対象者が主に第二次ベビーブーム世代だっただけに、競争が激化し就職は極めて困難であった。職を得られなかった若者はフリーターやニートとなり、彼らには社会保障の負担が十分できず、セーフティネットから外れる状況が生まれるようになり社会問題化する。格差社会の顕在化した現象の1つである。

 失われた20年の経済成長率を表すGDP(国内総生産)の平均は0.91%で、ほとんど動きがない。90年代の10年間は98年99年がマイナス成長、2000年代の10年は08年09年がやはりマイナスとなっている。日本と中国と比べると、90年には日本が中国の12倍だったGDPも、2010年には追い抜かれてしまう。この成長スピードが続けば、10年後の中国の経済規模は日本の3倍程度になる推計が成り立つという。GDPの推移はそれから4年ほど経った現在でもそれほど大きな変化はない。失われた20年の経済動向がいかに深刻な問題を抱えているかが分かる。

 どの分野でも物事に限界があることを歴史が教えてくれているが、失われた20年の時代背景にはグローバリゼーションがある。すでに80年代から現れていたことではあるが、最も顕著になってきたのが90年代であろう。日本企業の海外進出の傾向を3つの段階に分けられるという。「産業空洞化の克服」(小林英夫著)によると、第一段階は70年代から85年のプラザ合意までの期間。急激な円高により競争力を失いかけた産業が輸出企業を守るため海外に展開し出した時期である。第二段階はプラザ合意から90年代前半までの期間。円高傾向に拍車がかかり、家電や自動車などは系列外会社や下請け会社までこぞって海外に展開する。そして第三段階は90年後半からは、アジア諸国の技術力向上のなかで、主力生産部門も海外へ移転し展開していく。いまや日本の輸出総額に匹敵する額が海外拠点で生産されるようになっているという。


 〔注〕「プラザ合意」=1985年の先進5か国蔵相会議で合意した円高ドル安を
   誘導する内容。アメリカには対日貿易赤字の顕著化を是正する目的があった。
   この年1ドル235円が1年後には150円と なった。
   円高不況は日銀の政策もあり、金融界、企業界は不動産や株式に投資を促すこと
   になり、バブル景気へと繋がったといわれる。


 日本企業の海外進出は、結果的に日本各地の地域社会を衰退や崩壊に結びつく現象へ結びついていく。多くの中小企業や零細企業は存続基盤を失うと同時に、地場産業の崩壊に繋がり、雇用先が消失する。農家では後継ぎまで留めおけなくなり、限界集落に近い状況が生まれる。一方、グローバル化する日本人は海外旅行や長期滞在する人々が急増し、日本人の海外旅行者は75年に年間100万人を超え、80年では400万人、バブル景気に乗って90年には1000万人となる。95年には1500万人を超え、2000年には1700万人を超える(国土交通省「平成20年度 観光の状況」より)。一方、訪日観光客の状況は95年335万人、5年後の2000年は476万人、05年673万人、そして10年には861万人に増加している。5年毎に150万人から200万人ほど増えている。

 失われた20年は日本の経済に地殻変動をもたらしたその一片を上記の内容から知ることができる。まだまだ触れねばならない事柄が多く、紙数に制限があるため省略する。グローバリゼーションという時代の大きな流れと共に、新自由主義的経済(市場原理主義)の全面化がこの20年間我々を包み込んできたが、この経済環境はさまざまな問題をも提起している。国民の平均所得の減少や一億総中流の崩壊、格差社会の登場と問題化、日本的経営の縮小と成果主義経営の拡大など、こうした経済構造の変動は国家モデルの変換と強く繋がっている。我々はもう一度失われた20年の歩みと問題点を理解することが重要と思えてくる。(つづく)







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