〔第16話〕ラジオの新たなかたち・私論


** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 6〉**


 前項の〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム、〈2〉ラジオ評価と聴取率調査、〈3〉民放FMラジオの誕生と普及、についてレポートしたが、もう一つ〈4〉民放連「ラジオ委員会」とその活動、について触れておきたい。


〈4〉民放連ラジオ委員会の活動

 60年代初頭の民放ラジオは、テレビの影響により急速に事業規模が低下、苦難の道を歩んでいた。民放連ではラジオ復興を目指し「ラジオ強化委員会」を設置、各局は人材を派遣し様々な施策を提案し実施していった。その成果によって60年代後半にはラジオ各局とも事業の回復を実現し、70年代には安定成長期に入ることができた。「ラジオ強化委員会」は大きな役割を果たすとともに、新たな環境変化に対応する必要が生まれてきた。そこで、この委員会を発展的移行として71年4月に「ラジオ委員会」と改組した。民放連放送業務部に置かれ事務運営を担当することになった。

 新たな「ラジオ委員会」は70年代のラジオの方向性を見出すべく、専門家を交えながら民放ラジオの社会におけるポジショニングとその戦略戦術を練っていった。71年12月に発表された報告書には次のような方向性が示されている。まず民放ラジオの位置づけとして「コミュニティ・ステーションとしてのラジオ」を掲げ、このコンセプトを実現するために「これからのラジオは全地域住民のコミュニケーションの軸として発展しなければならない」という視点を打ち出している。いま考えると誠に斬新で進取の気象に富んだ発想であり、21世紀のラジオ像を考える上で重要な示唆を与えてくれる。この点は当ブログの核心となるもので、しばらく後に詳しく触れ、新たな提案をしてみたいと考えている。

 この報告書にもう少し触れると、このレポートの視点は当時注目されつつあった「ニューローカリズム」に視点を当て、地域メディアとしての役割を打ち出したもので、かなり先見性のある発想であった。地域ラジオの特性を(1)生活レーダーとしての機能(レーダー性)(2)人々の対話を活性化する機能(広場性)として示し、「この2特性を日々の放送に十二分に生かしつつ、人びとのコミュニティ意識を、どうプロモートしていくか、それも閉ざされた地域エゴをではなく、外に向かって身を開いたコミュニティ意識をどうプロモートしていくかが、民放ラジオにとっての最大の課題である」と報告している。

 そして翌72年から「移動研究会」を開催し、「コミュニティ・ステーションとしてのラジオ」から「コミュニティ・マーケティングの実践と展開」に広げて各局とともに実施している。これはその後のラジオセミナーのメインテーマとして取り上げられ、実践的な検証を加えて深化させていった。70年代の民放ラジオはラジオ委員会が提示した「コミュニティメディア」という位置づけが徐々に浸透し媒体力をはかる理論的支柱となったのである。

 上記の内容は「民間放送30年史」(民放連発行)を参考としているが、現在の民放ラジオを考える時、70年代のような理論的支柱となるものが何もない。ない以上さまざまな方向性が提案されても、議論百出ばかりで方向性は見い出せていない。これが民放ラジオの現状だが、過去の歩んだチャレンジを調べてみると、何と勇気があり進取の精神に富んでいたか驚かされる。民放ラジオ誕生30年という期間はやはり若い時代、若さが充ちていた時代といえるのではないだろうか。それから30年、冬の時代が訪れている。

 ラジオ委員会の活動はさらに広がっていく。その1つがラジオメディアのPR活動である。各種「公共キャンペーン」の実施や「ラジオ月間」を設定し、全国展開を行なっている。「公共キャンペーン」では73年5月から展開された「ベトナムの子供らに愛の手を」だ。キャンペーン・ソングや特別番組の放送は勿論のこと、募金活動では1億3,000万円余の義援金を集めるという大きな成果を得た。74年には日本赤十字社と連携した「はたちの献血」(第1回)が民放ラジオ全社で実施され、献血において前年比率13.6%の増加という実績も上げた。大きな成果は日赤はじめ各方面から高く評価された。このキャンペーンはその後も継続していった。

 「ラジオ月間」の方は、75年度から毎年10月に定められ、イベントの実施、統一番組の全社放送、ラジオセミナーの3本柱として、民放ラジオの集中的PRが実施され、その後も継続していった。実施された3本柱の内容をピックアップしてみると、第1回(75年)はイベント「災害から市民を守る」特別番組「戦後30年・日本人を育てた歌」ラジオセミナー「50年代のラジオを考える」、第4回(78年)はイベント「各社自主企画」特別番組「きみはUFOをみたか〜子どもの未来の詩〜」ラジオセミナー「ラジオ新世紀への挑戦」などとなっている。いずれも勢いを感じる。

 こうしてみてくると、「ラジオ委員会」が取り組み全国のラジオ局が連携した「公共キャンペーン」あるいは「ラジオ月間」は、民放ラジオというメディアを対外的に強くPRするとともにラジオ業界という内に向かってラジオの可能性を探り実践するバイブレーションを与えていったといえる。70年代の民放ラジオは業界が1つになってメディアの価値を高め、社会に影響力を持つメディアであることを、身をもって実践していった輝ける時代ではなかったろうか。(つづく)







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