〔第11話〕ラジオの新たなかたち・私論

**現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 1〉**


〔データにみる70年代の民放ラジオ〕

 民放ラジオが苦境を乗り切り復活を遂げた経緯については【第6話】と【第7話】で触れているが、60年代後半から70年代にかけて、第2の民放ラジオ黄金時代を迎えていく状況をみていこう。1970年代前後は、高度経済成長の終わりの近づいていた時代で、大方の国民は豊かになった社会生活、個人生活をどのような形で謳歌していくかに焦点が当っていた時期である。民放ラジオは、苦しい時代を乗り越えて新たなメディア価値を見出すことによって国民に注目され、経済成長の波にも乗ることができた。新たな社会的価値とマーケット価値を整っていった。その状況を民放ラジオの事業面からみてみよう。

 民放ラジオ事業は企業の広告費を原資としているので、60年代から70年代の媒体別広告費の推移をみると、その盛衰がはっきりわかる。61年全民放ラジオに投下された広告費は、178億円で前年度比100%とこれまでの成長が止まり、その後4年間にわたってマイナスとなっていく。5年後の66年に105%となりやっと回復する。この時期がラジオの「苦境の時代」である。それに反してテレビの成長は目覚ましく、ラジオの広告費を追い越した59年は238億円、そしてラジオが回復した66年には1247億円にも達し、8年間に5倍の成長をみる。以降も73年のオイルショックまで8年間平均115%の伸び率を示し、金額も3522億円と3倍近く成長する。いかにテレビが国民の生活に深く浸透し、企業がこぞって宣伝広告費を投下したかがわかる。

 民放ラジオの方は回復した66年169億円(105%)で、以降73年のオイルショックまで毎年平均115%伸ばしていく。金額にして496億円、66年時の3倍である。73年の時点でテレビとラジオは3対1、ラジオはテレビの3分の1のシェアであった。その後70年代の2度のオイルショックにも係らず、国民総生産が伸び、広告費の総額も増加しつづけ、10年間で3倍以上になる。80年にはテレビ7883億円(3.2倍)、ラジオ1169億円(3.4倍)の成長を遂げている(数字は「日本の広告費電通による)。

 こうして民放ラジオは、苦境を乗り切り、回復から成長への軌道に乗った70年代だが、この劇的な推移をどのような営業政策をもって対応していったのか、現在民放ラジオが再び苦境に陥っている状況下にあって、当時のラジオ界の姿勢に学ぶところが大きいので、具体的に触れてみよう。「電通年鑑」1970年版のラジオ面はこの状況を的確に纏めているので引用する。苦境以降チャレンジしてきた政策は、ラジオの体質改善に取り組み、新しいラジオ理論を構築、あるいはPR活動などを積極的に展開したことによるが、ラジオに携わる人たちの意識改革と活発な政策展開が大きいと記している。

 その政策を遂行する営業展開は、(1)ラジオ・リスナーをセグメントコンシューマーに組織化、活性化、そして調査など、スポンサーの販売ツールに関与した営業企画の拡大。(2)国民のレジャー志向に対応した土・日のワイド番組編成とその販売といった積極的な取り組み。(3)情報収集のためのシステム化(ヘリコプター、FMカー、ステーション・ワゴン、通信システム)を使用するマシン・プログラムの全国普及、(4)タイムランクの変更(料金表の改定)、による増収、およびカロリー・アップによる増額など。

(5)おびただしい数の販売資料配布。各社がそれぞれ作成配布したばかりでなく、〈ラジオはラジオである〉という意識から、たとえば東京3社TQL(TBS、文化放送ニッポン放送)による共同作成資料と配布などが上げられる。(6)民放各社の番組、営業上のケース・ヒストリーあるいはラジオ理論について、多彩な話題づくりを新聞、雑誌、レポート、屋外キャンベーンなどチャンスを捉えて展開した。(7)ラジオはヤングとドライバーばかりではなく、「ニュー・ホーム・レディ」という命名で、主婦層の存在をクローズアップし、巨大な消費者群を捉えるべくチャレンジしたことも忘れられない。以上当時の営業政策を箇条書きにして詳しく記している。

 ともかく、60年代の末から70年代にかけて、民放ラジオが実際にどんなリスナーに聴かれていて、どのように影響を及ぼしているかを調査し専門家とともに科学的分析を展開し、世のスポンサーに問うていった。そして各放送局が全社を上げて、情熱を持ってその資料を積極的に活用しスポンサー開拓に励んだ姿勢がそこにあったといえる。(つづく)

〔第10話〕 ラジオの新たなかたち・私論

**ポスト高度成長期と民放ラジオの活躍**


◎ポスト高度経済成長期という時代 〈1970年代〉 (Part 3)


 1970年代は2度の「石油ショック」を経験する。最初の「石油ショック」は73年、これまで謳歌してきた高度経済成長をストップさせ、新たな時代に代わっていくエポックとなった。この原因は中東戦争によるものだが、第2次太平洋戦争の時と同様、石油に由来している。高度経済成長期の日本は石油の80%をアラブからの輸入に依存していた。その価格が4倍に跳ね上がってしまった。

日本の経済はお手上げ状態になり、国内の物価が急騰する。成長、成長と現を抜かしていた政界財界そして国民は、どう切り抜けるか真剣に取り組まねばならなくなった。折しも日米経済摩擦の浮上や変動相場制への移行(1ドル=360円の終焉)など、国際関係に広がる懸念が多発し、日本の状況は政治経済はじめ社会・文化の分野も大きく変わらずを得ない時代になったのである。

 この時代のテレビコマーシャルにボンカレー大塚食品)の「じっとがまんの子であった」というセリフがある。ともかく庶民はじっと我慢して、嵐の通り過ぎるのを待つほかない世相であった。銀座のネオンは消え、テレビは深夜放送の中止、スーパーからトイレットペーパーが消えるという事態も起こった。この時の国民は自分たちの生活を見直し、節約、貯蓄、贅肉を落とす、という姿勢に取り組み、この苦境を乗り切った。この経験が2度目の「石油ショック」に生かされる。世界的に大騒動となっているにもかかわらず、日本は国民の自粛と巧みな対応で乗り切った。

 70年代は、豊かになった生活環境を〈これでいいのか〉と国民が問う時代になっていく。そして豊かな生活のなかで意識が大きくかわっていく時代でもあった。日本人の意識の変化についてNHK放送研究所が行っている調査からその一端を紹介しよう。NHK発行の雑誌「放送研究と調査」(2009年4月号)より、日本人の意識の変化を拾ってみる。たとえば、家族のあり方について〔望ましい家族〕では、夫婦の役割が旧来の分担ではなく《家庭内協力》に比重をおく意識が強くなる。73年の21%が83年には29%へ、93年には41%へ増加している。

また子供たちの教育程度については次のような結果がある。男の子の場合〔大学まで〕の進学が73年では64%、83年では68%、93年では70%と多少上がっていくが、女の子は〔短大・高専まで〕が73年では30%、83年では43%と13%もアップ、93年では40%と多少の減少、それに代わって〔大学まで〕という希望が増えていく。

人間関係について、親戚づき合いでは全面的つき合いの減少や形式的つき合いが増えている。職場での付き合いにおいて、全面的つき合いは全体的に数値が多い割に減少しているが、形式的つき合いは徐々に数値を増している。このほか興味ある項目が多数あるが、スペースの関係で触れられない。関心がある方は上述した雑誌「放送研究と調査」2009年4月号の記事と調査結果を参考にされたい。ネットで閲覧できる。

 この調査結果にも現れている通り、日本人の意識は高度経済成長期を経験し、安定成長へ移行した1970年代に大きく変化していく。その変化の仕方を「ポスト戦後社会」(岩波新書)の著者である吉見俊哉は上記調査結果からこう記している。

 「変化は家族と企業の全人格的な結合が、同時に弱まっただけではない。同時期に『しっかりと計画を立てて、豊かな生活を築く』や『みんなと力を合わせて世の中をよくする』といった未来中心の考えが弱まり、『その日その日を自由に楽しく過ごす』や『身近な人たちとなごやかに毎日を送る』といった現在中心の考え方がより支配的になっていった。」「〈未来〉を基準にして現在を位置づけることは、近代社会の根幹をなす価値意識であったわけだから、70年代以降に顕著になるこの変化は、戦後社会という域を超えて、近代社会の地殻変動が始まっていたことを示している。」と記している。

 70年代は多くの分野で振り返る必要があるが、ひとことで言うならば、戦後60数年のなかで70年代は、日本の社会と日本人の意識が大きく転換した時代だったといえるであろう。この70年代こそ、4大マスメディアが日本の社会に大きな影響力を持つ存在として揺るぎない地位を確立するとともに、民放ラジオが60年代後半から70年代にかけて第2の全盛期を謳歌していくのである。その辺を次回は触れてみたい。(つづく)







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〔第9話〕ラジオの新たなかたち・私論

**ポスト高度成長期と民放ラジオの活躍**


◎ポスト高度経済成長期という時代 〈1970年代〉 (Part 2)


 高度経済成長の結果、社会全体のパイが大きくなり豊かさを感じた時代、「中流意識」が国民全体に広まっていく時代。70年代はそうした状況のなかで国民の意識が次第に変化し、アメリカをモデルに、理想を追いかける時代、豊かさの夢を追い求める時代を経て、自分たちの手による時代の構築へと変わっていった。このゆとりと前向きの姿勢が、「重」から「軽」を尊重するという形で変化、工業製品では機能やデザインを重視、流通革命といわれた販売店も東京/渋谷街に象徴されるような、ファッション化する街づくりと一体化して進む。「重厚長大」から「軽薄短小」へという価値観の変化、その変化を現わす言葉に当時よく使われた「消費社会」がある。

 新たな社会デザインを提案している三浦展は著書「第四の消費」で消費社会を四段階に分けて、1975年以降を「第三の消費社会」としてその特徴を示す。 (1)家族から個人へ(車の家族に一台から個人に1台へ) (2)物からサービスへ (3)量から質へ(大量生産品から高級化、ブランド商品へ (4)理性、便利さから感性、自分らしさへ (5)専業主婦から働く個性へ という5項目を上げている。

 当時の社会生活の傾向がよくまとまっていると思う。「戦前のムラと軍隊という共同体が企業という『生産共同体』として再編され、かつその従業員は『消費共同体』としての家族を形成し、二つの共同体が相互に補完し合いながら、社会を発展させる推進力となった。国民はその両輪の上に乗り、両輪を動かし、二つの共同体への所属感情を持つことによって、みずからのアイデンティティを獲得した」と記している。

 その頃注目を集めた広告コピーに「消費は美徳」「大きいことはいいことだ」といった消費を促す雰囲気が社会全体を包んでいたように思う。こうして消費社会はますます広く深く浸透していくが、一方で忘れられない社会問題も多く発生する。それは経済成長の負の遺産ともいえる公害問題やベトナム戦争を支援してきた政府への反発など、社会問題として国民の前に大きく横たわることになる。高度経済成長の最後の大イベント「大阪万博」が終了すると同時に、開かれた国会は「公害国会」といわれ、公害関係法規が整備されていった。熊本水俣病、イタイタイ病、新潟水俣病四日市公害、森永ヒ素ミルク中毒、カネミ油症など大きく報道され、裁判が注目された。

 こうした公害問題が大小社会に広まることにより、加害者と被害者の区別が付きにくいケースが多発し、単位に公害として捉えるには不適切となった。そこで自然環境、都市環境などを含めて環境問題として捉えることとなり、政府も即応して「環境庁」(1971年)を設ける。70年代の前半はまだ高度経済成長期(衰退期)にあったが、70年のNHK世論調査によると、「今のような経済成長が続くことは望ましくない」という人数が「望ましい」とする人数を大幅に超えた結果が出ているという。国民の大半はすでにこの頃公害により多くの被害者を生み出しながら、「豊かさ」を維持し続けることに疑問を抱いていたのではないだろうか。そして73年に突然「オイルショック」が起き、これまでの社会生活がガラリと変わっていく。(つづく)





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〔第8話〕ラジオの新たなかたち・私論


**ポスト高度成長期と民放ラジオの活躍**


◎ポスト高度経済成長期という時代 〈1970年代〉 〈Part 1〉

 これから1970年代の社会と民放ラジオについて考えていこうと思うが、その前に「東洋の奇跡」と言われた高度経済成長をもう少し触れておこう。高度経済成長期間を整理してみると、長くみて戦後復興期を過ぎた年(1954年)から第1次石油ショックの年(1973年)のおよそ20年、あるいは実質的期間として、「所得倍増」を打ち出す池田勇人首相誕生(1960年)から第1次石油ショックの翌年(1974年)の14年間と捉えることもある。いずれにしても経済成長によって大きな社会に変化が生まれる時期は後者の期間である。ほかの言い方をすれば、池田勇人首相、佐藤栄作首相、田中角栄首相と3首相の任期時代で、これを胎動期、躍動期、衰退期と分けることもある。

 特にこの期間、軍事は日米安保条約に頼る形で、主に経済成長に重点をおいて政策が取られていった。その背景には戦争イメージを払拭し、民主主義国家として世界に存在感を示すものが経済の豊かさであり、敗戦で味わった苦しい生活を跳ね除ける国民の希望を具現化することこそ当時の為政者や官僚、大企業の姿勢であったといえる。その象徴が東京オリンピック開催であり、東京〜大阪新幹線開通であり、高速道路の拡張といった目で見える光景である。国民が肌で感ずることこそ重要で、成長政策の可視化であった。そうした政策が「大阪万博」へと繋がっていく。高度経済とは「大量」という言葉でもある。大量生産、大量輸送、大量販売、大量伝達、と何事にも「大量」が付いて回った。テレビCMで「大きいことはいいことだ」というキャッチフレーズが印象に残っている時代である。

 さて、1970年代初頭であるが、この頃は、衰退期にあったがまだ高度成長期であり、時代の潮流を変える大きな出来事が社会の注目を集めた。1970年春「大阪万博」の開催、1972年2月「札幌冬季オリンピック」「浅間山荘事件」、同年5月「沖縄本土復帰」、同年7月「田中角栄首相に就任」、1973年2月「変動相場制への移行」、同年11月「石油ショック」など、この時代のエポックメイキングな社会事象が多く発生している。特に「大阪万博」は世界へ向かって進む日本の産業界の姿を、「田中角栄首相」は高度成長に甘んじて日本列島改造計画提示、その後狂乱物価を招く。「札幌オリンピック」はスポーツを通じての世界へ前進する日本人の表出、「変動相場制」はグローバル経済と新自由主義へ繋がる端緒をつくり、そして「石油ショック」による辛酸を舐めるなど、日本の社会が大きく変貌していく時代であったといえる。

 70年代から80年代にかけて大きく変わった価値観は、「重厚長大」から「軽薄短小」へという変化、工業生産に支えられた工業化社会が金融やサービスなど中心としたポスト工業化社会へ、社会体制の基軸が移行していった時代でもある。この時期、国民は成長時代の3C(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)から新たな3C(カラーテレビ、クーラー、カー)へグレードアップし、自動車保有台数などは1960年46万台に比べて1970年には878万台へ19倍もの普及をみせている。ほぼ5人に1人の保有率である。住まいはといえば、郊外団地や新興住宅地に住み、様々な電化製品に囲まれた消費生活が営まれていった。

 この時期、政治経済の分野では、自民党政権による安定政治、60年代実質経済成長率の2桁経済成長から一桁成長に変わり、安定した社会を形成されていく。人口動態からみると、地方の若者が都会に移動した55年代から60年代そしてほぼ75年頃には終了する。都会に出た若者は 家庭を持つと、アパート暮らしからマンションや郊外住宅に住むようになり、都会生活こそ文化生活の最先端でもあった。都会、会社勤務、核家族という環境のなかで伝統的な生活共同体が崩壊し、新たなコミュニティ(共同体)が形成されていく。会社という組織を中心に核家族化が急速に進み、これまでにない生活空間を作り出していく。思い返せばこのころの会社生活には、家族も参加できる運動会や社員旅行などがあり、人との繋がりという点では、会社がコミュニティの役割を担っていた時代であったといえる。(つづく)






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〔第7話〕ラジオの新たなかたち・私論

**苦難の時代を乗り切った60年代後半の民放ラジオ**


〔民放ラジオは1960年代に衰退と復活を経験する〕その3

 ラジオが苦境から復活するその戦略を綴っているが、(1)個人リスナーのセグメンテーション、(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化については前回触れた。今回は、(3)番組のワイド化と大型企画の編成、(4)ラジオネットワークシステムの構築、を取り上げる。

 (3)番組のワイド化は生番組を中心とした午前、午後、夜、深夜と時間帯に見合ったターゲットを対象に、スタジオとリスナーを結んで生放送で展開する方式が中心となる。またFMカーが街中、商店街、住宅街などへ繰り出し、リスナーにマイクを向けて、リスナーの生活や反応を伝え、リスナーとの距離を短くしていった。生活感と世の動きを巧みに掬い上げる“井戸端ジャーナリズム”としての力量を発揮していく。大型企画の編成は、なんと言っても「プロ野球のナイター中継」であろう。以前にもナイター中継は放送されたことがあるが、1960年代以後は各局とも連日レギュラー番組として放送に踏み切っていった。

 また、ラジオはテレビに影響を受け、各局とも制作費削減に取り組まざるを得ず、現場は少ない制作費のなかでより話題性ある番組づくりに腐心した。その点ナイター中継は放送権以外にアナウンサーと解説者で進行するというシンプルな番組づくりであったことや、朝の番組、日中の番組もワイド化を図り、制作費負担削減に対応する一方、むしろ、少ないスタッフと個性あるパーソナリティの存在がラジオの新たな特性を引き出していく結果となった。言ってみれば現在のラジオ番組の原型というものがこのころ出来上がっていく。

 当時のラジオ現場の雰囲気を、当時は広告代理店に勤め、ニッポン放送担当だった作家の半村良は「放送局の社員でもないのに、スポンサーさえ見つけてくれば勝手にキー局の時間枠を取って番組が作れる時代だった」「結局自分でパーソナリティを見つけてきて、自分で台本を書いて、自らディレクター代わりにキューを振ったりしていた」と後のインタビューで語っている。苦しい状況に置かれていた民放ラジオの雰囲気が伝えってくる。

 一方、60年代後半から“いざなぎ景気”に支えられ大型消費時代が形成される時代背景とともに、ラジオの営業収益も向上をみる。そして編成主導のもとに様々な大型企画やラジオ媒体価値の指標づくりなどが登場する。民放連内に「ラジオ強化委員会」が設置され、統一キャンペーンの実施やCM効果と広告量の相関関係を説明する「リーチ・アンド・フリクエンシー」(到達と頻度)理論の導入・実用化など、ラジオメディアの有効性の実証的研究がなされ、ラジオ復活に大きく貢献した。  

 (4)ラジオネットワークの構築は1960年代中頃に誕生する。これは上記の大型企画や民放連のラジオ強化委員会などとも呼応し合って、ラジオの影響力を全国に広げていくと同時に、広告メディアとして全国展開を可能としていった。ネットワーク組織はキー局であるTBSが中心となって「Japan Radio Network」(JRN)が、65年2月に加盟30局で発足(現在34局、単独加盟4局、クロスネット30局)。また同じ年の3月、やはりキー局であるニッポン放送文化放送が中心となり「National Radio Network」(NRN)が加盟23局でスタートする(現在40局、単独加盟10局、クロスネット30局)。ここにラジオにおける2大ネットワークが誕生したのだった。

 このネットワークの特色はクロスネット局が30局に達していること。基幹地域(東京・大阪・名古屋・福岡など大都市の地域)の局は単独加盟、それ以外は両ネットワークに加盟している形態をとった。その形態は現在も続いている。いずれにしても、ラジオ苦境からの脱出は、“メディアの存在を変える”という4つの戦略が大きく功を奏して復活を遂げた。すなわち、ラジオメディアそのものを問い直す姿勢とそこから探り出された新たなメディア価値の創造だ。複数のリスナーからセグメントされた個人リスナーを対象に、個性あるパーソナリティが親戚の人や学校の先生といった親しみを感じるキャラクターで情報や話題を伝え、大型企画はラジオネットワークを通して全国に展開するという、ラジオがこれまでに考えもしなかったメディアのかたちを生み出し、新たなメディア価値を創造していった。

 このメディア価値を生み出していく背景の1つとして、真空管ラジオからトランジスタラジオの転換と普及があった。トランジスタラジオは受信機の小型化と車載化が可能となり、ラジオがいつでもどこでも聴ける体制が整っていったことは、ラジオの新たな価値の創造に計り知れない役割を果たしたといっていい。因みに電子機械工業会資料によると、1957年真空管ラジオの生産台数は263万台に対してトランジスタラジオが94万台、しかしその翌年にはトランジスタラジオの方が上回り、1960年には真空管式は189万台に対してトランジスタ式は1071万台と圧倒的な数となっている。ラジオが低迷と復活の時期に、ラジオ受信機は真空管式からトランジスタ式へと大きな転換を図っていく時期でもあったのである。

 60年代のラジオの衰退と復活は、上記の4つの戦略のほかに現場ではさまざまな試みが実施されたことはいうまでもない。経営者と現場社員とが一体となったチャレンジ精神の存在も大きかったであろう。民放ラジオは60年代後半から70年代へ向けて、第2の黄金時代を迎え、その再起した様子を“ラジオルネッサンス”という名前が付いたほどであった。現在のラジオの低迷を考える時、40年前のラジオの奇跡に学び、これからの情報革命と社会再構築に合致した構想と戦略を持って新たな民放ラジオづくりに邁進すべきこと教えてくれる。(つづく)






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〔第6話〕 ラジオの新たなかたち・私論

**苦難の時代を乗り切った60年代後半の民放ラジオ**


〔民放ラジオは1960年代に衰退と復活を経験する〕 その2

 民放テレビの急成長と反比例するかのように、衰退の一途を辿る1960年代の民放ラジオは、苦境をバネに新たなメディアとしての生き方を研究する。主に対象となった編成ポイントは、「家庭で聴くラジオ」から「個人で聴くラジオ」への大きな変化があり、その環境に即した編成として、(1)個人リスナーのセグメンテーション、(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化、(3)大型企画の編成、そして(4)ラジオネットワークシステムの構築、といった現在の民放ラジオの基礎となる対策が次々と打ち出し、テレビというメディアとは異なったラジオメディアづくりに挑戦していった。

 これらの対策をもう少し詳しく触れよう。(1)個人リスナーのセグメンテーションについて〜アメリカでは「オーディエンス・セグメンテーション」といわれ、既に存在していた。しかしアメリカでは、ラジオ局の専門局化の基本として用いられていた。日本のそれは一つのラジオ局の番組編成内のなかで採用されたものでアメリカとは多少異なる。リスナーの細分化は放送時間帯に合ったリスナーをメインターゲットとする方式。たとえば、午前中は主婦を、午後は主婦・商工自営・ドライバー、深夜はヤング世代を、といった時間帯別リスナーセグメントであった。因みにこのリスナーセグメンテーションの手法は64年3月にニッポン放送が打ち出した編成で、ラジオ復活に大きな影響を与えていった。

(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化〜番組出演者を主にパーソナリティと呼ぶようになり、人口に膾炙するのはこのころで、聴取率をアップする最大の要因はパーソナリティであるとして、各局とも総力を挙げてパーソナリティ育成に乗り出していく。当時の深夜放送のパーソナリティを見れば一目瞭然で、東京放送パックインミュージック〕は戸川昌子、野澤那智白石冬美など、文化放送〔セイヤング〕は落合恵子土井まさるなど、ニッポン放送オールナイトニッポン〕は糸居五郎高崎一郎、斎藤安弘など、最初の深夜番組パーソナリティとしてヤング層に大きな影響力を持ったパーソナリティであった。

 その後深夜放送パーソナリティとして注目された人々は、笑福亭鶴光山本コータローさだまさし谷村新司タモリせんだみつおビートたけし吉田照美など、その数たるや図り知れない。因みに1965年のラジオ調査で、15歳〜20歳前半ヤング層がシェア50%を越えたというから凄まじい。リスナーのセグメンテーションを採用し大成功させたのは他ならぬヤングを対象とした深夜放送であった。当時を経験したリスナーがいるとしたら、いまの深夜放送、いやいまのラジオをどのように受け止められるであろうか。

 このリスナー・セグメンテーションは、深夜に限らず朝、昼、夕方、夜とそれぞれ採用され、またセグメントされたターゲットに対して提供する番組内容に重点が置かれる。その最も重視されたのがラジオの持つ特性である同報性であり速報性であった。同報性とは送り手である番組(パーソナリティを含めて)と聴き手であるリスナーが同じ時間を共有すること。ラジオでは生放送である。速報性は名の通りできる限り早く情報を提供すること。この2つが尊重され、生放送番組におけるパーソナリティとリスナーの同時性、そしてニュース・トピックスの速報性が尊重された番組が多く創り出されていく。

 情報番組として挙げられるものは、ニュース番組、交通情報、天気予報、マーケット情報、スポーツ情報などなど、家庭の主婦、商工自営、ドライバーなどセグメントしたリスナーに対してきめ細かな速報として伝達すべくあらゆる分野の情報を取り上げていったのである。1960年代はモータリゼーションが急成長する時期で、乗用車の普及は60年の16万5千台が70年には318万台となり、いかにマイカーブームが凄まじく、カーラジオの聴取が多かったかが察しられる。ドライバーというセグメントされたリスナーが日毎に増加していったかが分かる。(3)大型企画の登場と(4)ラジオネットワークの登場は、次回につづく。





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〔第5話〕ラジオの新たなかたち・私論

**苦難の時代を迎えた60年代の民放ラジオ**

〔民放ラジオは1960年代に衰退と復活を経験する〕 その1

 1955年以降日本は、戦後復興期を脱し経済成長の道を走り始める。民放ラジオも成長環境に支えられ、急速に普及していくが、この背景には放送分野でNHKラジオが戦前戦中における社会状況や戦時状況を把握する唯一の手段として国民の間に普及をしていた。因みに終戦時の1945年のNHKラジオ契約数が750万契約、民放ラジオが開始された51年には920万契約、1,000契約を越えるのはその2年後である。民放ラジオがスタート早々黒字経営を迎えられたのは、すでに受信機の普及により広告メディアとしての価値が備わっていたといえる。そして民放ラジオは1960年頃まで順調な成長を遂げていく。

 50年代の家庭における欲求は「三種の神器」(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)で、50年代後半の普及率は目覚ましいものがあった。特にテレビは、59年の「皇太子ご成婚記念パレード」を見ようと購入、電気店からテレビ(モノクロ)の在庫が一掃されたというエピソードが残っている。そして60年代には「3C」の時代となり、カラーテレビ・クーラー・乗用車という新しい耐久消費財にとって代わる。NHKの受信契約数の流れをみると、59年ラジオ契約数が1,460万件の最高数字を示し、この年を境に毎年減少し、8年後の68年には220万(最高時の15%)まで低下し、ついにラジオ受信料が廃止されテレビのみとなっていく。

 それに対してテレビの普及率は凄まじく、58年から59年の1年間の契約数は198万から1,980万へと10倍に跳ね上がっている。皇太子ご成婚記念イベントをテレビで見ようとする国民の期待がいかに大きかったかが分かる。その後は毎年2〜3割の伸び率を示し、10年後の70年には2,200万を突破する。当時の全国世帯数が2900万余なので、75%の家庭に普及したことになる。ここで60年代の重要なポイントは、国民がラジオからテレビに一家団欒の中心を移した時期、NHK受信契約からみると、62年の年にラジオが945万件、テレビが1,020万件であり、契約数でラジオとテレビが入れ代わった。

 この状況を民放のラジオ・テレビの広告費からみてみると、ラジオの営業収益が59年に162億円、テレビが238億円となり、ここでも入れ代わっている。その後ラジオはほぼ横ばい状態に対してテレビは平均13%の割合で伸びていく。横ばいといっても時代は高度成長期で、60年〜70年の10年間に国民総生産(GDP)が4.5倍、日本の総広告費が4.3倍も成長した時期だけに、民放ラジオの営業収益がいかに衰退したかが分かろうというものでる。

 NHKラジオの受信契約数の減少も民放ラジオの営業収益の衰退も、非常に厳しい状況であったことが上記の数字で分かるが、ラジオの大きな流れとして、50年代のラジオが第1期全盛期を迎え、その勢いは60年代に入る急速に縮小し、民放ラジオは衰退の一途を辿っていく。言ってみれば現在の民放ラジオが置かれている状況と非常に似ている。ラジオが置かれている社会環境や生活環境が異なるものの、本質的には「ラジオの衰退」という状況は共通である。民放ラジオはこの苦境をどのように乗り越えて行ったか、民放ラジオの取り組み、そして何を生み出して行ったかを次回に触れてみたい。なお、記載数字は日本放送協会「NHK年鑑」民放連「日本民間放送年鑑」民放連「ラジオ白書」などを参照。(つづく)






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