〔第9話〕ラジオの新たなかたち・私論

**ポスト高度成長期と民放ラジオの活躍**


◎ポスト高度経済成長期という時代 〈1970年代〉 (Part 2)


 高度経済成長の結果、社会全体のパイが大きくなり豊かさを感じた時代、「中流意識」が国民全体に広まっていく時代。70年代はそうした状況のなかで国民の意識が次第に変化し、アメリカをモデルに、理想を追いかける時代、豊かさの夢を追い求める時代を経て、自分たちの手による時代の構築へと変わっていった。このゆとりと前向きの姿勢が、「重」から「軽」を尊重するという形で変化、工業製品では機能やデザインを重視、流通革命といわれた販売店も東京/渋谷街に象徴されるような、ファッション化する街づくりと一体化して進む。「重厚長大」から「軽薄短小」へという価値観の変化、その変化を現わす言葉に当時よく使われた「消費社会」がある。

 新たな社会デザインを提案している三浦展は著書「第四の消費」で消費社会を四段階に分けて、1975年以降を「第三の消費社会」としてその特徴を示す。 (1)家族から個人へ(車の家族に一台から個人に1台へ) (2)物からサービスへ (3)量から質へ(大量生産品から高級化、ブランド商品へ (4)理性、便利さから感性、自分らしさへ (5)専業主婦から働く個性へ という5項目を上げている。

 当時の社会生活の傾向がよくまとまっていると思う。「戦前のムラと軍隊という共同体が企業という『生産共同体』として再編され、かつその従業員は『消費共同体』としての家族を形成し、二つの共同体が相互に補完し合いながら、社会を発展させる推進力となった。国民はその両輪の上に乗り、両輪を動かし、二つの共同体への所属感情を持つことによって、みずからのアイデンティティを獲得した」と記している。

 その頃注目を集めた広告コピーに「消費は美徳」「大きいことはいいことだ」といった消費を促す雰囲気が社会全体を包んでいたように思う。こうして消費社会はますます広く深く浸透していくが、一方で忘れられない社会問題も多く発生する。それは経済成長の負の遺産ともいえる公害問題やベトナム戦争を支援してきた政府への反発など、社会問題として国民の前に大きく横たわることになる。高度経済成長の最後の大イベント「大阪万博」が終了すると同時に、開かれた国会は「公害国会」といわれ、公害関係法規が整備されていった。熊本水俣病、イタイタイ病、新潟水俣病四日市公害、森永ヒ素ミルク中毒、カネミ油症など大きく報道され、裁判が注目された。

 こうした公害問題が大小社会に広まることにより、加害者と被害者の区別が付きにくいケースが多発し、単位に公害として捉えるには不適切となった。そこで自然環境、都市環境などを含めて環境問題として捉えることとなり、政府も即応して「環境庁」(1971年)を設ける。70年代の前半はまだ高度経済成長期(衰退期)にあったが、70年のNHK世論調査によると、「今のような経済成長が続くことは望ましくない」という人数が「望ましい」とする人数を大幅に超えた結果が出ているという。国民の大半はすでにこの頃公害により多くの被害者を生み出しながら、「豊かさ」を維持し続けることに疑問を抱いていたのではないだろうか。そして73年に突然「オイルショック」が起き、これまでの社会生活がガラリと変わっていく。(つづく)





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