〔第8話〕ラジオの新たなかたち・私論


**ポスト高度成長期と民放ラジオの活躍**


◎ポスト高度経済成長期という時代 〈1970年代〉 〈Part 1〉

 これから1970年代の社会と民放ラジオについて考えていこうと思うが、その前に「東洋の奇跡」と言われた高度経済成長をもう少し触れておこう。高度経済成長期間を整理してみると、長くみて戦後復興期を過ぎた年(1954年)から第1次石油ショックの年(1973年)のおよそ20年、あるいは実質的期間として、「所得倍増」を打ち出す池田勇人首相誕生(1960年)から第1次石油ショックの翌年(1974年)の14年間と捉えることもある。いずれにしても経済成長によって大きな社会に変化が生まれる時期は後者の期間である。ほかの言い方をすれば、池田勇人首相、佐藤栄作首相、田中角栄首相と3首相の任期時代で、これを胎動期、躍動期、衰退期と分けることもある。

 特にこの期間、軍事は日米安保条約に頼る形で、主に経済成長に重点をおいて政策が取られていった。その背景には戦争イメージを払拭し、民主主義国家として世界に存在感を示すものが経済の豊かさであり、敗戦で味わった苦しい生活を跳ね除ける国民の希望を具現化することこそ当時の為政者や官僚、大企業の姿勢であったといえる。その象徴が東京オリンピック開催であり、東京〜大阪新幹線開通であり、高速道路の拡張といった目で見える光景である。国民が肌で感ずることこそ重要で、成長政策の可視化であった。そうした政策が「大阪万博」へと繋がっていく。高度経済とは「大量」という言葉でもある。大量生産、大量輸送、大量販売、大量伝達、と何事にも「大量」が付いて回った。テレビCMで「大きいことはいいことだ」というキャッチフレーズが印象に残っている時代である。

 さて、1970年代初頭であるが、この頃は、衰退期にあったがまだ高度成長期であり、時代の潮流を変える大きな出来事が社会の注目を集めた。1970年春「大阪万博」の開催、1972年2月「札幌冬季オリンピック」「浅間山荘事件」、同年5月「沖縄本土復帰」、同年7月「田中角栄首相に就任」、1973年2月「変動相場制への移行」、同年11月「石油ショック」など、この時代のエポックメイキングな社会事象が多く発生している。特に「大阪万博」は世界へ向かって進む日本の産業界の姿を、「田中角栄首相」は高度成長に甘んじて日本列島改造計画提示、その後狂乱物価を招く。「札幌オリンピック」はスポーツを通じての世界へ前進する日本人の表出、「変動相場制」はグローバル経済と新自由主義へ繋がる端緒をつくり、そして「石油ショック」による辛酸を舐めるなど、日本の社会が大きく変貌していく時代であったといえる。

 70年代から80年代にかけて大きく変わった価値観は、「重厚長大」から「軽薄短小」へという変化、工業生産に支えられた工業化社会が金融やサービスなど中心としたポスト工業化社会へ、社会体制の基軸が移行していった時代でもある。この時期、国民は成長時代の3C(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)から新たな3C(カラーテレビ、クーラー、カー)へグレードアップし、自動車保有台数などは1960年46万台に比べて1970年には878万台へ19倍もの普及をみせている。ほぼ5人に1人の保有率である。住まいはといえば、郊外団地や新興住宅地に住み、様々な電化製品に囲まれた消費生活が営まれていった。

 この時期、政治経済の分野では、自民党政権による安定政治、60年代実質経済成長率の2桁経済成長から一桁成長に変わり、安定した社会を形成されていく。人口動態からみると、地方の若者が都会に移動した55年代から60年代そしてほぼ75年頃には終了する。都会に出た若者は 家庭を持つと、アパート暮らしからマンションや郊外住宅に住むようになり、都会生活こそ文化生活の最先端でもあった。都会、会社勤務、核家族という環境のなかで伝統的な生活共同体が崩壊し、新たなコミュニティ(共同体)が形成されていく。会社という組織を中心に核家族化が急速に進み、これまでにない生活空間を作り出していく。思い返せばこのころの会社生活には、家族も参加できる運動会や社員旅行などがあり、人との繋がりという点では、会社がコミュニティの役割を担っていた時代であったといえる。(つづく)






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