〔第7話〕ラジオの新たなかたち・私論

**苦難の時代を乗り切った60年代後半の民放ラジオ**


〔民放ラジオは1960年代に衰退と復活を経験する〕その3

 ラジオが苦境から復活するその戦略を綴っているが、(1)個人リスナーのセグメンテーション、(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化については前回触れた。今回は、(3)番組のワイド化と大型企画の編成、(4)ラジオネットワークシステムの構築、を取り上げる。

 (3)番組のワイド化は生番組を中心とした午前、午後、夜、深夜と時間帯に見合ったターゲットを対象に、スタジオとリスナーを結んで生放送で展開する方式が中心となる。またFMカーが街中、商店街、住宅街などへ繰り出し、リスナーにマイクを向けて、リスナーの生活や反応を伝え、リスナーとの距離を短くしていった。生活感と世の動きを巧みに掬い上げる“井戸端ジャーナリズム”としての力量を発揮していく。大型企画の編成は、なんと言っても「プロ野球のナイター中継」であろう。以前にもナイター中継は放送されたことがあるが、1960年代以後は各局とも連日レギュラー番組として放送に踏み切っていった。

 また、ラジオはテレビに影響を受け、各局とも制作費削減に取り組まざるを得ず、現場は少ない制作費のなかでより話題性ある番組づくりに腐心した。その点ナイター中継は放送権以外にアナウンサーと解説者で進行するというシンプルな番組づくりであったことや、朝の番組、日中の番組もワイド化を図り、制作費負担削減に対応する一方、むしろ、少ないスタッフと個性あるパーソナリティの存在がラジオの新たな特性を引き出していく結果となった。言ってみれば現在のラジオ番組の原型というものがこのころ出来上がっていく。

 当時のラジオ現場の雰囲気を、当時は広告代理店に勤め、ニッポン放送担当だった作家の半村良は「放送局の社員でもないのに、スポンサーさえ見つけてくれば勝手にキー局の時間枠を取って番組が作れる時代だった」「結局自分でパーソナリティを見つけてきて、自分で台本を書いて、自らディレクター代わりにキューを振ったりしていた」と後のインタビューで語っている。苦しい状況に置かれていた民放ラジオの雰囲気が伝えってくる。

 一方、60年代後半から“いざなぎ景気”に支えられ大型消費時代が形成される時代背景とともに、ラジオの営業収益も向上をみる。そして編成主導のもとに様々な大型企画やラジオ媒体価値の指標づくりなどが登場する。民放連内に「ラジオ強化委員会」が設置され、統一キャンペーンの実施やCM効果と広告量の相関関係を説明する「リーチ・アンド・フリクエンシー」(到達と頻度)理論の導入・実用化など、ラジオメディアの有効性の実証的研究がなされ、ラジオ復活に大きく貢献した。  

 (4)ラジオネットワークの構築は1960年代中頃に誕生する。これは上記の大型企画や民放連のラジオ強化委員会などとも呼応し合って、ラジオの影響力を全国に広げていくと同時に、広告メディアとして全国展開を可能としていった。ネットワーク組織はキー局であるTBSが中心となって「Japan Radio Network」(JRN)が、65年2月に加盟30局で発足(現在34局、単独加盟4局、クロスネット30局)。また同じ年の3月、やはりキー局であるニッポン放送文化放送が中心となり「National Radio Network」(NRN)が加盟23局でスタートする(現在40局、単独加盟10局、クロスネット30局)。ここにラジオにおける2大ネットワークが誕生したのだった。

 このネットワークの特色はクロスネット局が30局に達していること。基幹地域(東京・大阪・名古屋・福岡など大都市の地域)の局は単独加盟、それ以外は両ネットワークに加盟している形態をとった。その形態は現在も続いている。いずれにしても、ラジオ苦境からの脱出は、“メディアの存在を変える”という4つの戦略が大きく功を奏して復活を遂げた。すなわち、ラジオメディアそのものを問い直す姿勢とそこから探り出された新たなメディア価値の創造だ。複数のリスナーからセグメントされた個人リスナーを対象に、個性あるパーソナリティが親戚の人や学校の先生といった親しみを感じるキャラクターで情報や話題を伝え、大型企画はラジオネットワークを通して全国に展開するという、ラジオがこれまでに考えもしなかったメディアのかたちを生み出し、新たなメディア価値を創造していった。

 このメディア価値を生み出していく背景の1つとして、真空管ラジオからトランジスタラジオの転換と普及があった。トランジスタラジオは受信機の小型化と車載化が可能となり、ラジオがいつでもどこでも聴ける体制が整っていったことは、ラジオの新たな価値の創造に計り知れない役割を果たしたといっていい。因みに電子機械工業会資料によると、1957年真空管ラジオの生産台数は263万台に対してトランジスタラジオが94万台、しかしその翌年にはトランジスタラジオの方が上回り、1960年には真空管式は189万台に対してトランジスタ式は1071万台と圧倒的な数となっている。ラジオが低迷と復活の時期に、ラジオ受信機は真空管式からトランジスタ式へと大きな転換を図っていく時期でもあったのである。

 60年代のラジオの衰退と復活は、上記の4つの戦略のほかに現場ではさまざまな試みが実施されたことはいうまでもない。経営者と現場社員とが一体となったチャレンジ精神の存在も大きかったであろう。民放ラジオは60年代後半から70年代へ向けて、第2の黄金時代を迎え、その再起した様子を“ラジオルネッサンス”という名前が付いたほどであった。現在のラジオの低迷を考える時、40年前のラジオの奇跡に学び、これからの情報革命と社会再構築に合致した構想と戦略を持って新たな民放ラジオづくりに邁進すべきこと教えてくれる。(つづく)






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