〔第6話〕 ラジオの新たなかたち・私論

**苦難の時代を乗り切った60年代後半の民放ラジオ**


〔民放ラジオは1960年代に衰退と復活を経験する〕 その2

 民放テレビの急成長と反比例するかのように、衰退の一途を辿る1960年代の民放ラジオは、苦境をバネに新たなメディアとしての生き方を研究する。主に対象となった編成ポイントは、「家庭で聴くラジオ」から「個人で聴くラジオ」への大きな変化があり、その環境に即した編成として、(1)個人リスナーのセグメンテーション、(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化、(3)大型企画の編成、そして(4)ラジオネットワークシステムの構築、といった現在の民放ラジオの基礎となる対策が次々と打ち出し、テレビというメディアとは異なったラジオメディアづくりに挑戦していった。

 これらの対策をもう少し詳しく触れよう。(1)個人リスナーのセグメンテーションについて〜アメリカでは「オーディエンス・セグメンテーション」といわれ、既に存在していた。しかしアメリカでは、ラジオ局の専門局化の基本として用いられていた。日本のそれは一つのラジオ局の番組編成内のなかで採用されたものでアメリカとは多少異なる。リスナーの細分化は放送時間帯に合ったリスナーをメインターゲットとする方式。たとえば、午前中は主婦を、午後は主婦・商工自営・ドライバー、深夜はヤング世代を、といった時間帯別リスナーセグメントであった。因みにこのリスナーセグメンテーションの手法は64年3月にニッポン放送が打ち出した編成で、ラジオ復活に大きな影響を与えていった。

(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化〜番組出演者を主にパーソナリティと呼ぶようになり、人口に膾炙するのはこのころで、聴取率をアップする最大の要因はパーソナリティであるとして、各局とも総力を挙げてパーソナリティ育成に乗り出していく。当時の深夜放送のパーソナリティを見れば一目瞭然で、東京放送パックインミュージック〕は戸川昌子、野澤那智白石冬美など、文化放送〔セイヤング〕は落合恵子土井まさるなど、ニッポン放送オールナイトニッポン〕は糸居五郎高崎一郎、斎藤安弘など、最初の深夜番組パーソナリティとしてヤング層に大きな影響力を持ったパーソナリティであった。

 その後深夜放送パーソナリティとして注目された人々は、笑福亭鶴光山本コータローさだまさし谷村新司タモリせんだみつおビートたけし吉田照美など、その数たるや図り知れない。因みに1965年のラジオ調査で、15歳〜20歳前半ヤング層がシェア50%を越えたというから凄まじい。リスナーのセグメンテーションを採用し大成功させたのは他ならぬヤングを対象とした深夜放送であった。当時を経験したリスナーがいるとしたら、いまの深夜放送、いやいまのラジオをどのように受け止められるであろうか。

 このリスナー・セグメンテーションは、深夜に限らず朝、昼、夕方、夜とそれぞれ採用され、またセグメントされたターゲットに対して提供する番組内容に重点が置かれる。その最も重視されたのがラジオの持つ特性である同報性であり速報性であった。同報性とは送り手である番組(パーソナリティを含めて)と聴き手であるリスナーが同じ時間を共有すること。ラジオでは生放送である。速報性は名の通りできる限り早く情報を提供すること。この2つが尊重され、生放送番組におけるパーソナリティとリスナーの同時性、そしてニュース・トピックスの速報性が尊重された番組が多く創り出されていく。

 情報番組として挙げられるものは、ニュース番組、交通情報、天気予報、マーケット情報、スポーツ情報などなど、家庭の主婦、商工自営、ドライバーなどセグメントしたリスナーに対してきめ細かな速報として伝達すべくあらゆる分野の情報を取り上げていったのである。1960年代はモータリゼーションが急成長する時期で、乗用車の普及は60年の16万5千台が70年には318万台となり、いかにマイカーブームが凄まじく、カーラジオの聴取が多かったかが察しられる。ドライバーというセグメントされたリスナーが日毎に増加していったかが分かる。(3)大型企画の登場と(4)ラジオネットワークの登場は、次回につづく。





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