ラジオの新たなかたち・私論 〔第24話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時代にどのように取り組んだか!《 Part2 》

〈 AIDMAをラジオで実践するニッポン放送

 わくわくすること、楽しいこと、参加したくなることは、人間に行動を起こさせる基本と思うが、このエレメントを知り尽くしているのがニッポン放送(LF)だ。消費行動の法則AIDMAを放送活動の根底においてラジオの持つ力を実践してみせたのがニッポン放送といっていい。1984年にLFは開局30周年を迎え、4月の編成コンセプトに「いますぐ逢いたかった♡ニッポン放送」とした。「楽しさ、やさしさ、面白さ、感動――理屈ではない共感こそニューメディア時代のAMラジオのあり方であり、だから“いますぐ逢いたいニッポン放送”でありうると確信する」と当時の編成部はコメントを出している。

 そのコンセプトを実現させるために、番組改編を早朝から夕方番組に掛けて、大胆に手掛けていくが、なかでも84年度の30周年記念企画「ビックリウィーク“ラジオが変わる!こんな番組欲しかった‼”」は、番組とイベントをドッキングさせ、話題を作り出すLFならではの企画の実践であった。7月中旬に行われた1週間の放送は、さまざまなターゲットに合せ、曜日別の企画編成を採用。総合プロデューサーも各界の有名人を据えて展開した。たとえば「ティーンズ放送局」(大滝詠一P)は24時間の音楽専門放送局として展開。「レディース放送局」(橋田寿賀子P)は女性たちの感性に訴える企画とブランド品展示即売会実施。「ニュース&スポーツ放送局」(竹村健一江本孟紀P)ではニュース報道スポーツ情報の新たな試みを展開、24時間のなかにワイドなトーク・セッションを作り上げる。ほかに野末陳平渡辺美智雄船村徹嵐山光三郎などが各曜日をプロデューサーとなり、画期的な番組を放送し、多方面から大きな反響を呼んだ。

 これからのラジオはどのような形があり得るのか、さまざまな角度から実験的に取り組んでいる姿勢は、おそらく80年代以降のラジオのあり方を考えるヒントを、実践しながら会得しようとするLFならではのチャレンジ精神に満ちたものだった。そして、翌85年もこの路線を踏襲し、大胆に取り組んだ。74年以来10年以上も首都圏トップの聴取率に君臨する自信が、「また おまえか!ニッポン放送」というキャッチフレーズに現れている。85年はこのコンセプトを中心に編成全体のコンセプトにおき、局全体で取り組んでいく。「イベントを多発しラジオの活性化を求め、流行現象を創造して行く」と同局の資料にある。遊び感覚というか、面白くなくてどうする?といった雰囲気を局全体で共有し合い、メディア戦国時代のラジオを広くアピールしようという狙いだったといえよう。

 その後の編成コンセプトには86年度「もお!たーいへんニッポン放送」、87年度「今年度もニッポン放送にまかせてチョンマゲ!」、88年度「トンデモはねてるニッポン放送」といった具合である。いずれも基本は特別番組を編成、それをイベント化し、世間の話題をさらう、それも四季にわたって展開する。それらの内容をここで詳しく紹介するスペースはないが、一部に触れておこう。

 85年度のフジサンケイグループが毎年総力をあげた「国際スポーツフェア」は5月の連休中に開催、LFは会場から「ニッポン放送 また おまえか!ステーション」を設置し、放送展開すると同時に一日中イベント展開を実施した。おもしろドカン、ドカン!アニメヒーロー大集合」「輝け!パーフォーマンス・グランプリ」などなど連日展開し、まさに来場者に見せるラジオを演出してイベントラジオの本領を発揮した。こうした大型企画を夏にも番組企画として展開している。86年度は、春企画は同様に実施、夏に「もお!たーいへん放送局」と題して1か月間スペシャル企画、特集企画を組みながら大移動する生活者に交通情報をふんだんに提供する編成を組んでいる。

87年度は期間限定のイベントラジオをはじめ、レギュラー番組のイベント化に力を注ぐ。前者は「イベントならニッポン放送にまかせてチョンマゲ!」を合言葉に大型企画「コミュニケーション・カーニバル 夢工場‛87」を東京・大阪で開催している。レギュラー番組では「ヤングパラダイス」のリスナー投書から“若者による若者のためのラーメンづくり”をイベント化。日清食品と連携して商品化。そして5万個を完売。そのほか「オールナイトニッポン」を核とした大型音楽イベントを野球場で実施するなど数えきれない。88年度は1年通じて祝祭日を「ホリデイ・スぺシャル」として編成し、スポーツあり、ドラマあり、歴史あり、ドキュメンタリーありと、あらゆる分野を手掛けながら、イベントと連動できるものはすべて実施するという勢いだ。

 こうみてくると、LFというラジオ局の姿勢はFM競合時代の対策という視点よりも、メディア戦国時代にラジオがいかに生き残るかという、メディア存続を前提としたチャレンジ姿が浮かんでくる。そのチャレンジ姿勢を端的に現わしている言葉を引用しておこう。当時LFの常務取締役であった亀淵昭信は「放送批評」87年4月号にこう発言している。「俺たちはゲリラだ。野球で言えばテレビは4番バッター、3番は新聞だろう。ラジオは5番か6番か。いやそれよりも俺は1番を打ちたい。1番バッターってのは塁に出てグルグルかき回して、3番、4番に打たせてホームへ帰ってくる。そういう意味では流行の発火点、その役割をやりたいなって思う。これはずっと教えられてきたうち(LF)の伝統じゃないかと思う。」80年代に打って出たLFのさまざまな戦略戦術にはこうしたチャレンジ精神が背景にいつもあったようである。(つづく)






*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜