ラジオの新たなかたち・私論 〔第23話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時代にどのように取り組んだか!《 Part1 》


 80年代の民放ラジオは70年代と比べ、メディアとしての存在を鮮明にしていったといっていい。特にAM局は積極的な取り組みを展開する。その要因は、?70年代よりも聴取率が低迷ないし下降気味に推移し出し、従来のあり方に危機意識を抱いたこと、?民放FMが84年には21局、89年には31局になり、本格的なAM/FM競合時代に入ったこと、?営業収益の伸び率がFMに比べAMの低さがはっきりしてきたこと、などが上げられる。こうしたAMを取り巻く環境の変化に対応すべく、ステーションのあり方や編成方針の立て直しといった基本的姿勢の変更に取り組んでいった。

「激化するメディア競争のなか、ラジオには固定観念の打破が迫られ、起死回生の企画が要求される。ラジオはメディアの先頭に立って話題づくりを起こすことが運命づけられている」(新聞「民間放送」85年10月3日号)と札幌テレビ:大森秀美ラジオ局長は記している。恐らく当時の民放AM局は媒体力低下という危機意識を背景に、新たな取り組に立ち向かう姿勢がうかがえる。そこで最も見直された視点は、民放AMがこれまでに築き上げた報道力であり、企画力であり、人材力をという特性をバックにリスナーを喚起する“話題づくり”のラジオにあったようだ。


〈 報道への力点と大人を意識したTBSラジオ 〉

  キー局といわれるTQL(TBS、QR、LF)3局の動向は、多かれ少なかれ地方局に影響を与えてきたので、まずTQLの新たな取り組みから触れてみたい。“報道のTBS”といわれたTBSは、80年代半ば生活情報の充実を図る編成方針「メディア多様化時代のなかで“信頼と共感”のTBSラジオ“をモットーに、リスナーの生活感覚に共感する“活きのよいラジオ”をめざす」と打ち出した。そして85年4月編成には全放送時間の40%もの番組改変を実施、特に注目されたのは朝スタートして夕方まで7時間半のワイド番組「スーパー・ワイド・ぴいぷる」を月〜金ベルトで編成、パーソナリティも曜日別担当というこれまでの習慣聴取、固定聴取を打ち破る戦略に出た。時間とともに変化する首都東京の出来事を、報道・情報面から随時伝えていく流れを重視した姿勢である。

 この新たな試みは、聴取率低迷という結果を招き、開始1年で打ち切られることになったが、様々な課題を提起した番組として記憶されている。生活時間とワイド番組のあり方、生活情報の取り組み方伝え方など、ワイド番組に不可欠な情報と演出の課題が提示され、その後の番組改編の度に検討し、課題を克服していく。番組は午前中の「大沢悠里のゆうゆうワイド」、午後は小島一慶起用の「一慶の歌謡大行進」という、編成は従来型のワイド番組の形態に戻るがそれぞれの課題は番組のなかで消化されていく。

 一方、深夜帯の時間にも斬新な編成番組を組む。それは“大人向けラジオ編成”で、代表番組が「ハロ−ナイト」(月―金ベルト21:00〜23:00)である。深夜ラジオといえばヤング対象の番組と決まっていたこの固定概念を一掃するような番組で、大型ニュース枠や夜間初の交通情報導入、専任ニュースキャスターの起用など、従来のヤング路線から大人路線に変え、新たな聴取者を開拓する思い切った番組編成を行なっている。

他に忘れられない番組として連続ホームコメディ「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」が月〜金ベルト15分番組として新設され大きな話題となった。また、今でも続いている毒蝮三太夫の商店街訪問の中継番組はこの頃スタートしているが、当時の番組は「土曜ワイド商売繁盛」だ。いずれも1986年のことでる。80年代のTBSラジオはリスナーとの庶民的コミュニケーションを構築しながら、報道性の重視と大人のラジオを編成の基本において、さまざまな番組編成に取り組み、はっきりしたTBSのステーションイメージを構築していったといっていいだろう。

〈 思い切って個性化を図る文化放送番組群 〉

 文化放送(QR)はどうであったろうか。85年4月編成で打ち出した番組「文化放送ライオンズ・ナイター」は番組コンセプトに「ハッキリいってライオンズびいきです」という思い切った姿勢を打ち出す。ライオンズ応援中継番組である。スポーツの客観報道を基本としていたラジオ界はビックリ仰天、論議を醸し出した。スタート当初は抗議の電話や投書が多く寄せられたが、スタッフは「どうぞ他局を聴いてください」という徹底ぶりだったという。それが功を奏し徐々に評判を高めていった。こうした番組の個性化は各番組にも現れていく。

これまでラジオは属性で分ける「オーディエンス・セグメンテーション」がリスナー分析の主流を占めてきた。しかし、成熟化した80年代は「感性によるセグメンテーション」を重要視していく。当時のQR駒井編成局次長はリスナーの「絞り込みとは、言いかえれば“感性”のセグメンテーションということです」といっている。個性化=リスナーの絞り込みを徹底した戦略だ。86年4月“海のみえるスタジオ”を設置し、番組「サントリー港区海岸1丁目」(日曜朝7:00〜8:30)を開始する。夜ではなく朝に、感性豊かな若者へ向けて、このスタジオから音楽とファッション情報を提供する狙いである。これまではスタジオを飛び出してリスナー(商店街など)を訪ねるという姿勢を、サテライトスタジオへ若者を呼び寄せようという逆の発想だった。こうした徹底ぶりがリスナーに認められていく。

QRには、個性化=リスナーの絞り込みという視点で見逃せない番組がある。86年10月スタートの「日曜の夜はTVを消して 落合恵子のちょっと待ってMONDAY」(日曜21:00〜23:30)である。“女性スタッフ”による“大人の女性”を対象とする思い切った番組で、夜はヤングという常識を破る編成であった。番組は予想通り評判を呼び、各方面から話題となった。番組は90分ワイドで、女性の関心を呼ぶ話題を多方面から取り上げた。なかでも社会性に富む事象を取り上げた「ちょっとコモンセンス」コーナーは多方面から注目され、86年度のギャラクシー賞、87年には日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞している。

 また、この番組で特質されるのは、番組を中心とした会員組織「おとな倶楽部」(有料会員)が作られ、1000人余の会員で運営されていたという。月1回のイベントと隔月の機関誌発行など、有意義な活動が展開された。この番組は90年に終了したが、現在25年も経っている。いまラジオが行き詰り、明日の世界が見出せないでいるなか、過去の民放ラジオ番組を振り返ると本当に多くの示唆を与えてくれる。落合恵子のこの番組もその1つだ。

リスナーを囲い込み、グルーピング化し、送り手と受け手が見える形で交流し、共に地域社会の貢献を目指すという活動によって、地域女性の活性化やコミュニティづくりに生きがいを見出していく、現在全国各地で求められている地域活動こそラジオがサポートできる分野ではないか。この点は「これからのラジオの視点」として重要な位置づけにあると思う。このことについては後述することになるが、こうした視点でみると「落合恵子のちょっと・・・」は、大いに参考になる。(つづく)






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