ラジオの新たなかたち・私論 〔第22話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


全国に開局した民放FMはどんな存在だったのか

 さて、首都圏民放ラジオ4局による共同調査でみえてくる姿は、80年代の民放AMが70年代に比べてSIUが少々下がる傾向を示していることだ。しかし時間帯別や属性でみると高い数値を維持しており、AMの特色が放送時間帯によって聴取者の変化が鮮明になっている。特に、年齢層の高いリスナーに受け入れらえる傾向がこの資料からみて取れる。一方、JRN共同調査によるAMとFMの聴取状況は、84年から89年の5年間で確実にFM聴取が増えている。

全体で「AMをよく聴く」が26.6%から24.9%へ減りつつあり、「FMをよく聴く」が8.5%から15.0%と倍近い数値に増えている。18才〜24才の男女では特に数字が高くなっており、80年代後半は確実にFM聴取の傾向が高まっていることがわかる。
80年代の民放FMが10代後半から30代をメインリスナーにターゲッティングした方向性と一致する。若い世代は新しいものに抵抗なく取り組む性格があり、良質な音楽を自由に聴けるラジオには関心が向けられていったことは自然の流れかもしれない。

 1つのラジオ・メディアを創り上げた民放FM。なかでもエフエム東京のキャッチフレーズがマーケティング分野で注目を引いた。「FMをラジオと呼ばないでください。FM放送と呼んでください」というキャッチコピーだ。都会の香り、文化的雰囲気、上品なイメージなどをステーション・イメージとして打ち出し新鮮なラジオ・イメージを構築するため、既存のラジオ・イメージを払拭する狙いがあったのだ。都会生活に憧れるAMの若者層がFMに移っていったのは自然な流れであったといえよう。民放ラジオはAM対FMの構図を取りながら全体としてリスナーの活性化を図っていったのが80年代であったといえる。

 その一端をFM雑誌隆盛にみることができる。FM専門誌は当時4誌も発売されている。「FMfan」「週刊FM」「FMステーション」だ。最も注目された80年代中頃は平均25万部、後に情報雑誌「ぴあ」も掲載するようになり、100万部を遙かに越えるFMファンを獲得していった。FMの雑誌連動はリスナーに番組内容を詳しく伝え、好きな楽曲のエアチェックを促進させるという、これまでのラジオにはなかった聴衆方法が開発していった。そして、このメディア連動はより良き音質で聴取すべく音響メーカーによるオーディオセットの開発を促し、また音楽業界にはCD売上の増進や音楽イベントの隆盛に繋がり、ラジオ・メディアとしてこれまでにないマーケットを開拓するという、正にラジオにおける新しいメディアの構築だったといえる。これは社会の潮流である「個性を求める」消費者ニーズに適ったメディアづくりだったことがわかる。

 民放FMの番組といえば、世界旅行を夢見た番組「ジェットストリーム」を代表として、来日アーティスト生収録番組「ゴールデン・ライブ・ステージ」、クラシックでは国内国外のトップ奏者やオーケストラの生演奏を収録して綴る「オリジナル・コンサート」、あるいは洋楽邦楽のベストテン番組「コーセー歌謡ベストテン」「ダイヤトーン・ポップベストテン」など多くのFMファンに人気を集めた。
なかでもエフエム東京の開局15周年(1985年)を記念した番組企画は特に注目を集めた。それは、「デジタル・ステレオ衛星生中継、いま世界のコンサートホールから」というプラハ、ベルリン、ボストンで行われたクラシック演奏会を生中継で放送した企画番組だ。世界一流の指揮者とオーケストラの演奏を直接リスナーに届け大きな反響を呼んだ。NHK−FMも番組には力を入れ、NHK交響楽団の定期演奏はじめ、EBU(ヨーロッパ放送連盟)通して各国の室内楽やオーケストラの生演奏を放送、ポピュラー音楽では米ヒット曲集、ジャズ、ラテン音楽など他分野にわたり、音楽ファンのニーズに応えていった。

 こうした音楽に特化したラジオが可能となった社会的背景について少し考えてみたい。80年代は一般生活者に「量から質へ」の転換を促す傾向が様々な分野で進行する。「大衆から少衆へ」というマーケティングウォークマンの普及はその象徴的現象であったが、それは「自分らしさの追求」の現れで、より個人的に、より個性的な感性を磨いていく傾向を強めていった。こうした傾向は消費傾向にもはっきり現れ、当時の西武デパート、パルコなどのあり方は大いに注目された。また家庭では、たとえば音響装置にしても、父親はリビングでステレオを、子供はそれぞれの部屋にミニコンポやラジカセを聴き、それぞれが求める音楽を楽しむ姿は日常的であった。

 ラジオで音楽専門放送=FM放送が成立した背景には、国民一人ひとりの生活の質を向上させる意識と同時に、「自分らしさの追求」という社会的成熟度を示した時代要素があったからに違いない。特に「音楽」という分野がラジオという放送で成立し、「スポーツ専門ラジオ」や「演劇・映画専門ラジオ」という分野ではなかったのは、音楽が個人的趣向に求められる性格であり感性的であると同時に、いつでもどこでも接触できる文化であったことに起因するところが大きいと思う。また、日本における音楽環境も、戦後30年を経て広い範囲に普及したことにもよるだろう。洋楽といわれるアメリカ音楽やヨーロッパ音楽の浸透、家庭における子供の音楽学習、そしてステレオ機器やレコード・CDの目覚ましい普及など、音楽が個人の世界に強く深く浸透した文化であったからに相違ない。

 もう一つ触れておきたいことは、NHK−FMの放送が1970年代に全国の都道府県に開局しており、音楽を中心に番組編成し放送していたことは、FM受信機普及の役割を担う一方、ラジオ・リスナーに対してFM放送=音楽放送というイメージを創り上げる役割を果たしたことを忘れるわけにはいかない。マーケティング的にみれば、なぜ「音楽分野」がこれほどまでにラジオ化できたのか、専門化できたのか、という疑問もあるに違いないが、一般生活者の質的変化とFM放送の普及は大いに相関関係があり、80年代のメディアの特色として取り上げることができよう。いずれにしても、80年代のラジオを語る時、メディアとしてのFM放送の存在は大きく、また戦後の音楽文化を語るに際しても触れねばならない存在であった。(つづく)






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