〔第4話〕ラジオの新たなかたち・私論

**高度成長期:民放ラジオの基礎ができた時代**


◎高度経済成長期〈1955年〜1970年〉

 1955年頃の雰囲気を知る人にとっては、本当に懐かしい時代である。島倉千代子「りんどう峠」春日八郎「別れの一本杉」などが街中に流れ、映画ではジェイム・ディーン主演の「エデンの東」が大ヒットする。衣食に瀕した時代の影はもうそこにはなく、誰もが前を向いて走り出していた。1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」ということばが登場し、当時のマスコミを賑わせた。象徴的なのは、当白書の結語で「回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」としている。

 このことばを裏付けるように1955年から「神武景気」が始まり、その後好況不況を繰り返しながらプレ高度成長期は進んでいく。そして翌年、日本が国連に加盟し世界から認められる。59年には皇太子ご成婚(現天皇陛下)が執り行われ日本中が沸いた。当時“三種の神器”の1つに数えられた白黒テレビは爆発的に普及する。国民はご成婚の様子をテレビで見ようとテレビに飛びついた。その翌年は60年安保で国を2分するほど大きく揺れ動く。そしてこの年、池田勇人内閣は“所得倍増”を唱え高度経済成長政策を推し進めていく。映画「ALWAYS・三丁目の夕日」はちょうどこの頃の雰囲気を再現している。64年には“東京オリンピック”が開催され、日本中を熱狂させた。こうした世界的な催事が実施できる国として、国民は大きな自信を持った時代である。

 また、政府は経済成長を促進させるため、公共投資を積極的に推進、新幹線の建設、高速道路の建設は急ピッチで進められた。物の豊かさを追求する世相は止まるところを知らず、この年の家庭における普及率は白黒テレビが90%、洗濯機56%、冷蔵庫62%を示しており、60年代末には経済成長を示す国民総生産(GNP)が、自由主義諸国のなかでアメリカに次ぐ世界第2位までに登り詰める。この経済成長の影では、社会問題として環境汚染を広く生み出し、大気・河川・海水の汚染が各地で発生し、公害病が多発する。

 社会学見田宗介によると、戦後復興期を〈理想の時代〉と名付けた。〈理想の時代〉とは、多くの場合American Way of Life(アメリカ人みたいな生活)の渇望が人々を動かし、現実の世界に対する理想を追求した時代であったという。そしてプレ高度成長期を〈夢の時代〉と名付けている。〈夢の時代〉は60年代前半の〈夢〉と60年代後半の〈夢〉に分かれるという。さまざまな背景はあるものの、前者は「幸福な家庭」を実現する夢を追い求めた時代、後者の〈夢〉はむしろ出来上がりつつある「近代合理主義」や「豊かな社会」という管理社会に対するレジスタンスが、理想の形に対する反乱といて現れた。ヒッピー・ムーブメントやフラワーチルドレンのような行動もそうした現れで、新しい時代のかたちを求める姿であった。いずれも「熱い夢」の沸騰であったといっていい、と表現している。

 成長期で忘れられないことは、経済成長に伴い大企業や中小企業は多くの働き手を必要としたことで、地方の農家や小事業者の家々から若者が大量に大都市へ移動したことである。集団就職の名に代表され、地方の中学高校の卒業生が送り込まれたのだが、その数たるや大変なもので、55年から65年の10年間に東北地区と九州地区では青年男性の50%前後、女性が40%前後に達したというから凄まじい。その結果、日本の社会構造や人口分布において大きな転換点を迎えることになった。これは家族のあり方や地域の共同体=コミュニティの形態に大きな影響を与える一方、都会における雇用労働者と新たな生活環境の誕生が顕著になっていく。この現象はメディアを考えるうえで、その後重要なポイントになっていく。これは別項で詳しく触れたい。(つづく)





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