【第127話】デジタルラジオのかたち・私論 (その47)

 毎日放送番組「たね蒔きジャーナル」は9月末を持って終了した。ラジオ局が多くのリスナーや有識者から継続の声があがっていたのに終わったことは、一つの番組に限らず、今後のラジオに少なからず影響を与えることに違いないが、ラジオの再起をテーマとする当ブログでは、この「たね蒔きジャーナル」終了のなかから、俯瞰的にみた多くの再生要素について少々前回触れた。今回から民放ラジオのあるべき方向性について具体的に触れていきたい。


■ プロローグ2:民放ラジオは取り組むべき課題を明確化し挑んで行こう!

 これまでのラジオは、社会構造的要因とラジオ事業者の既存価値観による経営によりラジオの衰退に拍車がかかったといっていい。こうしたこれまでのラジオ姿勢を大きく転換して、全く新しい姿勢、21世紀社会に求められるメディア像を追及していかねばならない。それにはラジオの新たな社会的文化的役割を見出すことを前提にして、明確な目標設定を構築し、民放ラジオ業界が共に邁進しなければ、恐らくラジオの存在価値はなくなっていくであろう。それほど窮地の状況にあり、このままでいくとラジオの消える日もそう遠くないかもしれない。そこで、ラジオがなくならないために、新たな再生のために、明確なラジオの将来ビジョンとその実現のための構造改革というものをこれから提案していきたいと思う。

 ではまず、「ラジオビジョン」の設定をどう考えるか。これまでの当ブログでは、ラジオと関係する社会の動き、たとえば、社会学で注目されているソーシャル・キャピタルの分野、地域活性化の土台となるコミュニティ(共同体)の重要性、地域社会におけるメディアの役割、増殖するネット社会との連携構築など、これからのラジオの社会的役割を考えるために、様々な分野を取り上げて紹介してきた。それらの考え方に基づいて、これから向かう社会環境のなかで、ラジオの果たすべき役割を「ラジオビジョン」化してみることにしよう。その前に「ラジオビジョン」がなぜ必要なのか、を少々触れることにする。

〈ラジオビジョンの必要性〉
 太平洋戦争後60年間、ラジオの果たすべき役割は、放送法に基づいて、各放送局は独自の放送基準を創って対応してきた。各放送局の基準は民放連によって策定された「日本民間放送連盟放送基準」を参考としている。NHKは「日本放送協会国内番組基準」と「日本放送協会国際番組基準」によって運営されている。この放送基準はテレビとラジオ共に放送の基本となるものだが、民放が発足して60年を経た現在、これまでとは大きく変わった社会に適合しているかどうか、検討してみる必要性があるのではないか。

 特にラジオの分野でいえば、これまでマスメディアとして大きな影響力を持っていた民放ラジオも、マスメディアから離れ、現在はミドルメディアとしての色彩が強い。(ミドルメディアについては当ブログ第103話参照。)“広く薄く”というマスメディアから“狭く深く”へというミドルメディアへの変化は、次の時代に大きく求められるメディア像でもある。一方、コミュニティ放送という地域メディアが全国的に広がっている。エリアは狭いが市民との強い繋がりを発揮するこうしたメディアの役割を含めて。ラジオをもう一度直視し、新たな時代のメディア構築に努力しなければならないが、その活動に伴う各放送局の放送基準や放送指針の在り方も考え直す必要も生まれるであろう。

 ラジオは地域性を重視するメディアであり、リスナー個人と深い繋がりを持つメディアであるという特性を、放送編成にどのように生かしていくのか。新たな地方の時代、地域の時代、コミュニティ重視の社会にあってラジオは具体的にどのように対応していくのか、大きく問われているといえる。メディアの地域貢献について「メディアの公共性とは言論報道においてのみ担保されるものではなく、そのメディアの全存在、全機能を傾けることによって実現されるべきものである」とメディア研究者の森治郎は指摘する(注1)。これはメディア一般について述べていることだが、ラジオはより地域性を強めている現在、社会に果たす役割として地域貢献〜新たな公共性を強く認識しなければならない時にきている。

 そうした視点から今のラジオを見てみると、ワイド番組中心でその日のテーマに沿ったリスナーのメール・FAXを紹介したり、地域情報を伝えたり、通信社・新聞社から配信されるニュースをただ伝えたり、話題はゲストに頼ったりと、いつも決まった方法で決まったフォーマットで番組をつくっている。しかも一過性の内容ばかりである。ラジオは、本当にいいのだろうかと疑問を抱いてしまう。もちろん前回取り上げた毎日放送番組「たね蒔きジャーナル」(終了)やTBSラジオの「Dig」、J-WAVEの「Jam the WORLD」その他、多くのラジオ報道番組、また民放連賞を受賞する優れた番組を知っている。ラジオにとって大切な番組である。そうした視点だけでいいのだろかという疑問が湧く。ラジオのリスナーが求めている放送は、もっと違う視点があるのではなかろうか。

 民放ラジオ60年を1つの区切りと考えてみると、これまでのラジオは、リスナーと近い存在、普段着のメディアといわれるほど受け手に近い存在であった、と送り手側は考えている。近い存在ならばもっと交流を高め、双方の関係が深くすることができるはずであるが、それほどではなかった。このことは全国的にみてラジオ接触率の低下していることでわかる。送り手側は、受け手であるリスナーを客観視しているところがあり、親しそうにみえて具体的には距離があるといったイメージ。そのイメージの背景にはこれまでラジオの拠り所であった「放送の公共性」という概念が付きまとっていたのだろうか。

 これからのラジオは地域の時代に相応しいメディアとして、この「放送の公共性」をどのように捉えて社会的役割を果たすのかが重要になってくる。その「公共性」の捉え方はこれまでとは大いに違うものになるのではないか。たとえば、これまでラジオが取ってきた姿勢、メディアの責任として受け手側に直接かかわることを避けるのではなく、もっとリスナーに近い立場で活動するといった発想、日頃のリスナーの立場に立って具体的に役立つこと、生活環境をより向上させるための放送活動といったように、<放送の公共性>ということばより<ラジオの公共性>といった方が相応しいような、地域生活圏における具体的な活動を取るべき時代にきているのではないだろうか。ラジオは直接リスナーに関わらない姿勢ではなく関わるメディアに変わっていくことが、これからのラジオの大きなポイントとなるように思える。(了)





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜