【第118話】 デジタルラジオのかたち・私論 (その38)

 「無縁社会」「格差社会」という現象に象徴されるいまの社会は、どうして生まれてきたのか。これからのラジオとリスナーの関係を考えていくには、社会の変質をしっかり把握した上で、これからのあるべき社会像のなかでラジオの果たしていく役割を探らねばならない。その意味で、現在の窮屈な社会が生まれてきたい過程を探っておきたいと思う。


■ 豊かな社会環境が生み出した負の社会現象の背景はどこにあるのか!

 いまの若い人たちはともかく、社会の中軸で過ごした人、現在活躍している40代〜50代の多くは、生まれ育った故郷を捨て都会に生活の糧を求めた人達である。高度成長時代の都会は刺激に満ち、「欲望」と「利益」をもたらす憧れの場所であった。両親の住む田舎を捨て、都会に多くの人達が大移動したのだ。それが経済成長を支え都会生活に潤いを与えてきた。東京はその典型的な都会である。都市化=近代化であり、都会生活こそ当時の若者にとって新生活があり魅了していった。自由を謳歌し、欲しいものを手に入れられる都会生活は若者にとって新たな生活スタイルを築く魅力ある場所であったのだ。

 バブル崩壊した1990年以降、都会で生活する人々は、さまざまな分野でこれまでとは異なった生活環境が生まれてくる。都会に出た人々はアパートやマンションに住み、核家族を形成し、隣近所の付き合いを断った。子供たちはよりよい進学を求め、勉強に縛られる毎日で仲間たちとの遊びや課外活動などに割く時間も生まれない。会社では成果主義に追われ、毎日同僚と競争しながら深夜まで働く。挙句の果ては会社の都合でリストラに遭うものなら、長期ローンの支払いに苦しまねばならない。一般的に働いているサラリーマン、オフィスレディは大方こうした環境で過ごしてきたのではないだろうか。そこには家族の団欒の姿は薄らぎ、絆も弱くなっていく。学校は先生と生徒、生徒間の亀裂が生まれ学校崩壊といった言葉が飛び交う。会社では社員が同僚との競争のなかで絶えず成果の実証を求められ心身ともに疲れてしまう。そこには上司、同僚などとの絆は薄らぐ。ことほど左様にかつて希望のあった都会生活は、息苦しい生活環境に変わってしまったことは、身近に感じている人が多いのではなかろうか。

 最近の新聞こんな記事が載った。「パラサイトシングル中年300万人(35〜44歳)」この世代の6人に1人が未婚のまま両親と同居していると、昨年度の総務省調査を伝えている。また各世代と比べても失業率が倍になっているともいう(毎日新聞5月2日号)。一方内閣府は、「自殺対策に関する意識調査」で20代の若者のうち「本気で自殺を考えたことのある割合」が28.4%に上り、各世代では最も多かった数値を公表している(5月1日内閣府発表)。こうした調査にもはっきり現れているとおり、日本の個人も家族も生活環境が大きく変化していることを示している。この数字はさまざまな分野の現象とつながっている。たとえば就職難、非正規雇用の問題や賃金格差の広がり、社会の無縁環境などさまざまな要因が重なっているに違いない。こうした住みにくい日本の社会が生まれてしまった原因はどこにあるのだろうか。

 つい我々は、こうした問題に関して国政が悪いだの、産業界の市場原理主義が行き過ぎたとか、教育機関の失策などといって責任を転嫁しがちであるが、果たしてそれで済むのだろうか。そもそも戦後(1945年以降)我々は、民主主義と自由主義に基づいた社会環境を支持し、資本主義を掲げて戦後復興に励み、成長経済を推進してきた。そこには近代市民社会といわれる先進諸国に仲間入りする社会を追い求めていった。個人主義の発達や都市化であり、電化生活の豊かさでもあり、自由な民主主義を謳歌する環境であったのだ。それは取りも直さず戦後の我々国民の多くが選択し求めたことであったということである。我々自ら進んでこうした近代化を推し進め、新しい社会における幸せな生き方を選んだものでもあった。

 いってみれば、我々が求めた戦後の幸せな近代市民社会が、結果として息苦しい生活へと変わってしまったといっていい。無縁社会、無縁死など負の社会現象は我々が求め続けた市民社会から生み出したものである。毎日のテレビ、新聞に家庭崩壊、青少年の殺害事件、孤独死の報告の記事を見かけない日はないし、家庭生活のなかでも、好むと好まざると係りなくひとり生活を強いられることがどんどん増えていく。孤独な生活者が増加する。内閣府の調べによると、65歳以上の一人暮らしの人は1990年162万人に対し、2010年では465万人へ、10年後の2020年には630万人へと増加するという(高齢社会白書より)。現在6人に1人は独居人という。この数に50代40代を加えると5人あるいは4人に1人ということになる。いかに独居生活者が多いかがわかる。

 ここで大切なことは、戦後我々国民が選んで推進してきた民主主義社会が成熟し、ある時点からマイナス要因が顕在化していったという、大きな社会の流れを汲み取る必要があろう。民主主義は、選択の自由、快適な生活、利己的な欲望を肯定しながら進んできた。70年代から80年代、我々は自己責任、自己決定を背景に自由な学校、職業を選ぶことができ、電化製品による快適な生活が営まれ、好きな趣味を謳歌できる環境を実現してきたといっていい。一億総中流という言葉に象徴される社会生活を営むことができたのである。
 しかしある時点から民主主義のマイナス面が顕在化してくる。個人の自由の拡大とともに最大多数の最大幸福という理想が行き詰って、個人主義の徹底や弱肉強食の経済競争の社会に突入し、果ては貧富の差の拡大、あるいはさまざま分野で格差社会を生じる結果を招いてしまっている。こうした社会環境がまた家庭、地域、会社などでの人間の繋がり、人との絆が希薄化してしまう新たな問題を引き起こす原因にもなっている。

 現在我々は、これまでの社会から次の社会へ転換する時代の「踊り場」に立たされているのではなかろうか。識者の多くはこの踊り場を「移行期の混乱」あるいは「ポスト工業化社会への移行期」と表現する人、「現代文明のみなおし」を説く人もいる。それほど我々の社会すべての分野で発想転換を図らねばばらない時期にきているということであろう。その意味でラジオ業界という一分野でも同じことがいえるのではなかろうか。(了)