ラジオの新たなかたち・私論 〔第20話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


〔物の豊かさから心の豊かさへの変化と民放ラジオ〕

 民放ラジオの歩みを振り返ると、1950年代は揺籃期であるが、すでに受信機の普及していたこともあり、新聞と同じマスメディアとしての影響力を持つようになっていた。50年代後半には全国的な普及のなかで茶の間の首座の地位を確保し、第1期のラジオ黄金時代を迎える。しかしテレビの急速な普及によってその地位を少しずつ譲り渡していく。テレビは高度経済成長下にあってその普及は目覚ましく、間もなく一般家庭ではテレビとラジオが逆転してしまう。そして苦難の時代へと移っていく。

 65年から70年代、ラジオは家族聴取から個人聴取へ新たな活路を見出し、ラジオの復興と第2の黄金時代を迎える。ワイド番組の有能なパーソナリティの登場や野球のナイター中継、若者を捉えた深夜放送など、個人を対象としたリスナーに寄り添うメディアとして変身していく。80年代はそうしたメディア価値を更に伸長させ、身近な存在のマスメディアとして影響力を持つメディアとなる。民放ラジオが現在のようなリスナーの傍にいて、社会の窓口として情報収集でき、いつでも好きなパーソナリティと会話でき、世間に開かれた窓の役割を果たすようになっていった。

 メディア論的にいうと、ラジオはマスでありながらリスナー個人とのコミュニケーションが成立するという、マス・パーソナル・コミュニケーションの世界ができあがった。80年代のラジオとは、現在のラジオが持つメディア価値(個人ユーザーを対象としたメディア)の開発開拓時期から一歩進み、安定成長期へと自ら育んでいった期間といえよう。それでは80年代が戦後と一区切りつけ、あらたな日本を模索していく社会潮流のなかで、民放ラジオはマスメディアとして社会にどんな役割を果たしたのであろうか。

 80年代社会の1つの特色は、一般生活者が社会の大きな変化のなかで“物の豊かさ”から“心の豊かさ”を求めていったという、生活感覚の大きな転換が進行した時代である。これは家庭生活から学校生活から社会生活まで、幅広く影響を及ぼしていった。“心の豊かさ”の追求は、取りも直さず生活者一人ひとりの心のあり方であり、個人の内面に帰するものである。この価値観の変化を支えていた世代は、50年代から60年代に全国の地方から大都市に移住した人々、高度経済成長時代に「金の卵」と称され集団就職で都会に移り住んだ人々とその家族たちといっていい。

 この“心の豊かさ”の追求は消費生活の面ではっきりと現れている。藤岡和賀夫は著書「さよなら、大衆。」(PHP研究所/1984年)でこう記している。彼は、戦後の豊かさイメージは所有の豊かさ、しかし身の回りには物が溢れている。人々は持つことではなく、いかにあるべきかという自分らしい豊かさを求めざるを得なくなった。「自分らしさ」を求める感性欲求が消費社会の中心的概念になっていく。そこにはもはや大衆は生まれず“少衆”という、趣向を同じくした人々によるグループとして“少衆”という概念を提示した。高度成長時代の大量生産大量消費は“物の豊かさ”の追求だが、“心の豊かさ”=“自分らしさ”に応えるには少量多品種生産と消費でなければマーケットは応えられなくなっていた。

 「自分らしさ」の背景には変貌する日本人の意識にも少し触れておく必要がある。NHKは1973年から5年毎に日本人の意識調査を行なっている。それによると家庭内での役割の変化や男女関係の意識変化、あるいは血縁=親戚関係、地縁=地域関係、会社=職場関係など社会的結びつきがさまざまな分野で弱まっている傾向が伺える。また現在を中心に考える傾向が次第に強くなり、未来志向の発想が弱まっている。こうした潮流を吉見俊哉は著書「ポスト戦後社会」(岩波新書/2009年)のなかで「戦後社会という域を越えて近代社会の地殻変動が始まっていたことを示している」と指摘している。

 現在を中心に考える発想とは、いま生きている社会のなかでいかに楽しく有意義に過ごすか、という意識であり、そのためには他人と違う「自分らしさ」に意識の中心があったのであろう。こうした社会生活の意識に対して、民放ラジオはラジオ局の多局化とラジオ番組の多様化することによってリスナーの趣向に合致する放送活動を展開していったのが80年代ではなかったろうか。(つづく)







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