【第92話】 デジタルラジオのかたち・私論 (その13)

■ 2011年とデジタルラジオの行方!

 時代はいよいよ21世紀初頭の10年が過ぎた。社会が大きく変化するなかで、マスメディアの世界では特にインターネットによる影響でマスメディアの衰退が進行している。なかでもラジオメディアが最も影響を受け、今後のあり方が危ぶまれている。一方、期待される出来事も起きている。これまで関東圏と関西圏でテストランが行われていた通常放送のネット連動だ。愛称「ラジコ」というネットラジオの本格的サイマル放送の開始である。昨年12月1日にこれまでテストランとして運営していたIPサイマルラジオ協議会が「株式会社rajiko」として正式発足し、ネットラジオの本格的運用となった。関東関西のラジオ13社と電通の出資による。

 これによってAM/FM局ラジオは、関東では7局、関西では6局のアナログラジオサイマル放送によってインターネットで聴くことができるようになった。この意味はラジオのサバイバルにとって極めて大きいといえる。どうして大きいのかを説明しよう。デジタルラジオは2013年に開局予定の「マルチメディア放送」(周波数90Mz〜108Mz)が本命といわれている。しかし、果たして本命といわれるような新たなメディアに成長するかどうかには、大きなハードルを抱えている。それだけに未知数といわねばならない。それに比べて、アナログラジオがネット放送を併せて放送できるということは、それこそアナログラジオが〈デジタルラジオを開始した〉といっていい。それほどメリットがある。この点を掘り下げてみよう。

 「マルチメディア放送」を待たずに「アナログラジオ」がネットによる「デジタルラジオ」を開始したことは、一言でいうと「マルチメディア放送」が可能であるということである。「マルチメディア放送」の特色は免許される周波数帯域が広いため、音声放送に加えて簡易動画、静止画、テキストなど様々な情報が一斉同報できる。リスナーの一斉アクセスによるサーバーのパンクということはない。しかし、今後受信機の普及という大きな課題を抱える一方、ネットメディア、ネットコンテンツが隆盛のなかで、余ほど魅力的な情報やコンテンツを発信しなければユーザーの獲得は至難の技である。

 その点アナログラジオのネット化は、すでにリスナーというユーザーが存在し、新たな受信機は必要なく、パソコンや携帯電話があればそれで済む。(携帯電話での受信はこれから各電話会社がアプリを用意する必要があるが、すでにiphoneなどで聴くことが可能である。)もう1つ音声を聴くだけでなく、ラジオメディアが最も必要としているインーネットの取り込みが非常に楽になるということである。市場が出来上がっている上に、マスメディア放送が目指している情報やコンテンツ配信がすべて可能だからである。これこそアナログラジオのサバイバルできる環境が整ったといっていい。
(音声と動画、静止画、テキストなどの連動配信の方法はユーザーの便利な形を検討する余地があるが、すでに各局は放送とホームページの連動が進んでいるので、これらを効率よく結んでいく方法を考えればいい。むしろ放送局側のネット情報の制作体制づくりを整える方が大切かも知れない。)

 さて、ネット配信で問題があるとすれば、これまでのアナログ放送を単にネット放送(サイマル放送)するだけという事業展開であろう。サバイバルにならない。ラジオのサバイバルという課題は、もう一度リスナーの再構築と放送の影響力復権である。それはリスナーが求める良質な番組を放送することであり、番組情報がネット上で効力を発揮し、リスナーの求める情報と有機的に繋がっていく、またそのサイトがソーシャルメディアとして影響力を発揮していかねばならない。アナログラジオのネット配信の意味はここにあるのではなかろうか。


■ 映画「ラヂオの時間」を観て! 

 当ブログの前回は、ラジオの「リスナー離れ」と「収益の低減」がアナログラジオの危機的状況を生み出しているその原因を探ってみたが、ラジオに携わっている人はもう一度この2つの原因を根本的に問い直し、ラジオ業界の体質転換も同時に展開しなければ、せっかくデジタルラジオの可能性を手に入れたメディア特性を、サバイバルとして生かすことはできないのではなかろうか。

 新年に当たって、ラジオの可能性をさまざまな角度から考えてみたが、やはり、長年マスメディアとして君臨していたラジオ人は、明治維新の志士たちではないが、価値観の転換している現代の情報伝達やコミュニケーションを問い直し、体質の変革を成し遂げるチャレンジが不足しているように思われる。ラジオの平成維新とでもいえる改革の担い手がこれから登場してくることを期待したい。ラジオ業界の体質といえば、このお正月にみた13年前の映画に改めて気付かされた。三谷幸喜脚本監督の映画「ラヂオの時間」である。

 この映画は、あるラジオ局の深夜にラジオドラマの特別番組を放送する設定だ。一般公募した脚本を1時間ほどの番組に仕立てる。民間放送の生番組が前提で、多くの有名俳優女優タレントの出演あり、番組プロディーサー、ディレクター、ミキサーを加えて展開して行く。出演者の役割とその演技に吹き出しながら感心してしまったが、ラジオ番組の当時の本質を扱っていることと、13年経った今見直すと、当時それほど感じられなかったラジオ業界の体質があちこちの場面に噴出していて、考えさせられることが多かった。

 ラジオ業界の体質として面白かった場面は、スポンサーが付いている番組は、まずスポンサー重視、次いで番組に出る有名俳優タレントの希望の反映、プロデューサー、ディレクターは番組本質を欠いても制作し放送する姿勢、放送作家や一般公募の脚本は2の次3の次となる。この状況は極端な例として登場するが、現実に通じるものがある。放送制作の良心として、本来あるべき姿に悩むディレクターや今は守衛さんになっている年配の元音響効果マンによる番組づくりの本質を言わせているが、売上尊重と合理性を求めるラジオ局の体質が象徴的に描かれていて、三谷幸喜監督の視点には驚かされる。

 これからのラジオは、右手に「アナログ放送左手にネット放送」という運転台に座ることになるが、数年先には右手にネット放送、左手に電波サイマル放送になるかも知れない。それほどネット社会の影響力は著しく、ビジネス構造の変化が急速だ。そう考えると、ラジオ事業者は、これまでの事業のあり方を改めて考え直し、ネット時代に沿った新しいラジオ事業を構築すべき大きな課題が突きつけられていることを知る。大いに急ぐ必要があるだろう。(つづく)