【第80話】 デジタルラジオのかたち・私論(その1)

■ ラジオの現状をどのように捉えるのか

 つい先日、週刊「エコノミスト」(8月10日号)にラジオが特集された。見出しは《ラジオの復権》という。「ラジコ」というIPサイマルラジオの開始により、これまで離れていたリスナーが戻ってきた様子を報じながら、メディアのデジタル化に遅れを取るラジオの苦境をレポートしている。。
その具体的問題点は、ラジオのリスナー離れ、スポンサー離れとうラジオメディアの柱に亀裂が入りはじめていること、それに加えて市民生活の情報基盤がデジタル化の道を突き進んでいる状況なかで、これからのラジオの向う方向性が見えてこない、ということである。ラジオは衰退していくのか再生していくのか、継続していくアナログ放送とこれから登場するデジタルラジオが混在するなかで、放送が維持されるのかどうか、生き残るとすればどんなかたちになるのか、ラジオを愛する人々には不安が尽きない。ラジオ業界全体として予断を許さない環境が進行している。

 もう一つの話題は、この特集記事にも書かれているが、テレビのデジタル化の跡地に予定されているデジタルラジオの方向性を記した「ラジオと地域情報メディアの今後に関する研究会報告書」(総務省)である。当ブログでも前回までの5回にわたってその一部を紹介してきた。ここに報告されている「ラジオ論」「V-LOW論」に関して、多少の違和感を覚えたところもあり、疑問を付しながら紹介した。その疑問とは、ラジオにとってのアナログ放送とデジタル放送の問題で、このアナログとデジタルでどこが変わるのか、変わるとするならばどんな変わり方になるのか、そのイメージが見えてこないのだ。現在のラジオの延長線上にデジタルラジオがあるようにも受け取れる。また、ラジオ関係者のなかには、放送のデジタル化によりこれまでと大きく異なった環境が生まれてくることを把握しきれていない人が多いようにも感じられる。もう少し付け加えるなら、放送の視点からデジタル化を考えるのではなく、デジタル化された情報社会からラジオを考える視点が少なすぎるのではないだろうか。こうした視点が総務省の上記「報告書」に多少の違和感を覚えることに繋がっているのかも知れない。また、ラジオが60年間の放送活動で作り上げたメディア特性を、今後のデジタル情報社会で生かしていくかたち(イメージ)にも不足感を覚える。それはなぜなのだろうか。


■ アナログからデジタルへの変化とは何か

 いま「アイパッド」が注目されている。これまでのケイタイやPDAと注目のされ方が違っている。デジタルに不得意な高齢者にも人気なのだ。テレビのスイッチを捻るように、ノートサイズの画面を指で動かすだけだ。インターネットに苦手な高齢者も簡単に扱える。一方テレビはインターネットに繋がってきた。身の回りの電化製品がすべてデジタル化である。さあ、このデジタル化からラジオを眺めるとどうなるのだろうか。

 話は飛ぶが、テレビドラマ「坂本龍馬」を見ていて思いついたことがある。幕末から明治時代に移り、大きく変わったものは価値観であろう。新たな価値観の背景には社会インフラの地殻変動があった。たとえばインフラの1つ郵便制度を例に取ろう。幕末までは手紙である書状は人足である飛脚によって運ばれていた。交通手段も同じで、宿場という停留所システムのもとで、人足と駕籠運搬により移動した。ところが明治になり、郵便制度が登場し、汽車という交通網の発達によりこれまでとは比べ物にならない速報体制が整った。また、通信手段の登場により電話電報も登場し、情報伝達のあり方が全く異なることになり、これまでの伝達手段である飛脚を成り立たなくなり、宿場町がこの世から消えてしまった。

 さて、現代の情報社会のインフラはデジタル化である。すなわち、社会基盤がデジタル化され、社会を動かす基本システムが変化しているのである。日本は2000年以降組織内のコンピューター導入、家庭へのパソコン普及、そして急速なインターネット・ケイタイ電話の普及が一気にデジタル化社会へと繋がってきた。すなわち、情報伝達の手段である社会基盤がアナログからデジタルに移行していることで、この変化はこれからの新しい社会を構築していく基盤となる。上記の江戸時代の飛脚や宿場町のシステムから明治時代の郵便や交通網システムへの変化を、アナログラジオデジタルラジオに置き換えて考えてみてはいかがだろうか。デジタル化による情報基盤の変化を読み取れるような気がする。(つづく)