ラジオの新たなかたち・私論 〔第25話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時どのように取り組んだか!《 Part3 》

 80年代の東京キー局「TQL」(TBS・QR・LF)の取り組みは、前項に記したとおり、これまでにない大胆な取り組みを展開し、それが全国のローカル局にさまざまな形で影響を及ぼしていく。ローカルに行けば行くほどFM局と競合する度合いが大きくなるため、ラジオ局の意識は相当高いものであった。特に80年代後半は、東阪名九という大都市の4FM局による聴取率と営業収益の伸長はAM局に脅威を与えずにはおかず、ローカル局は開局間もないFM局とはいえ、いずれ対峙するシェア争いを想定せざるをえなかった。


〈 育んだAMの強みを積極的に打ち出したローカル局

 民放AMのキー局であるTQFの取り組みは、当然ローカル局に大きな影響力をもたらしたが、ローカル局ローカル局としてこれまでの育んできたAM放送の強みを再検討すると同時に、その強みを新たな形で番組編成やイベント展開に発揮していく。その主なポイントをあげるなら、〈a〉時間をかけて育んできた地域からの信頼感の再構築、〈b〉“AMらしさ”を強調する地域報道・地域情報・地域スポーツへの重点など、地域密着情報を積極的に取り組み、(c)“頼れるパーソナリティ”の更なる育成に力点をおいた対策、など新しい地域密着ラジオのあり方にチャレンジしていった。

 ローカル局において「リスナーからの信頼感」はNHKラジオへの信頼感と優るとも劣らない高さを持っていた。それは地域情報の確かな伝達や地域リスナーと深いつながりをつくり出してきたパーソナリティの存在、そして番組やイベントでのリスナー交流であろう。なかでも長寿ワイド番組をより大切に扱う姿勢により強く現れていよう。たとえば、中部日本放送「おはようCBC」(月〜金ベルト7:15〜9:00 )は76年4月開始の番組、当時10年目を迎えており、中島公司アナウンサーの個性的な話し方で通勤、ドライバー、主婦の朝の生活情報を提供し人気を博した。この番組は「聞いたら他人に話したくなる話題を提供」というテーマを設定、更なる強化策を打ち出している。

札幌テレビ放送「河村通夫の桃栗三年」(月〜金10:00〜11:55)は、85年当時で番組開始20余年を経ている。この番組の強化により「米ぬかブーム」や「自然塩ブーム」などを起こし全国に広めている。「日常生活と密着したコトやモノから関心事を盛り上げる番組」として、主婦から大きな反響を呼んだ。熊本放送「こちらは九州ラジオ村」(月〜金15:00〜17:30)はパーソナリティ小松一三を村長にして綴る村感覚の決め細かい情報番組。村民取材者の協力を得て、番組情報誌「村民しんぶん」を発行し、リスナーとのコミュニケーションに役立てている。これらはローカル局取り組みの一部であるが、生活感覚を大切にし、パーソナリティの親しみあるコミュニケーションによって信頼感を深め、絆を強めていった。

 ローカル局の“信頼感”はパーソナリティの力量によるところが多いが、局の姿勢として取り組んだ地域報道の視点も重要で、“信頼感”の深さを形づくる大きな要素といえる。山梨放送は「ワイン有毒事件」の発生から営業禁止処分解除に至るまで多角的に取材し放送、リスナーからの意見を多数紹介するなどして、ラジオらしい取り組みが高く評価された(85年)。南海報道は当時の白石愛媛県知事による地元新聞の取材拒否の問題を取り上げた。番組「ラジオ・ドキュメンタリー取材拒否の論理」を放送、評判を呼ぶ(85年)。栃木放送は、地域住民と建設業者の利害の対立で、流血騒ぎに発展した産業廃棄物場建設問題について20日間にわたり放送した(85年)。これはどこの地域でも起こりうる問題として注目された。

 地域情報として関心の高い分野は「スポーツ番組」である。プロ野球に関してはキー局より提供される中継が中心となるが、地域スポーツとしては、冬期スキージャンプ競技、マラソン&駅伝、陸上競技高校野球、夏期冬期国体、高校サッカーなど県下で行わる大会、競技会を積極的に取り上げている。なかには栃木放送のように、こども相撲大会といった番組もある。「わんぱく相撲宇都宮場所」がそれで、30分の番組を放送し、親からの録音テープの催促が多くあったという。このように扱うスポーツは大小さまざまだが、中継を通じて地域密着姿勢を鮮明に打ち出し、FMとの差別化を図っていく様子が見て取れる。

 もう一つ取り上げておきたいのが“特別企画”と“イベント展開”だ。特別企画は性格上単発番組が多い。87年度はその当たり年で、各局とも創立〇〇周年を迎えるところが多く、社をあげてと取り組んでいる。周年企画はお祭り的要素が多く入るため、長時間放送とイベントとのドッキングが多い。東北放送35年記念企画は「I LOVE みやぎリクエストラリー」として一週間5時間番組を展開、パーソナリティがラジオカーで県内各地を廻りリスナーのリクエストを紹介する。

北陸放送は35周年記念「ドーンと電リク480分」を8時間にわたり実施。あらゆる年齢層とジャンルを問わない音楽リクエストによる地元触れ合いとボランティア募金を実施した。長崎放送はラジオ35周年特集として社屋玄関を「好き勝手市」とし、繁華街のサテスタと結んで多元中継を展開、番組テーマは「NBCラジオは今後どう歩むか」という結構シーリアスな内容もあるが、いずれもリスナーとの接触を大切に展開する企画が多かった。このようにAMローカル局は、FM競合時代をキー局と連携しつつ、また独自の発想でリスナーへのアプローチを展開していったのが80年代後半の姿であったといえよう。(つづく)





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ラジオの新たなかたち・私論 〔第24話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時代にどのように取り組んだか!《 Part2 》

〈 AIDMAをラジオで実践するニッポン放送

 わくわくすること、楽しいこと、参加したくなることは、人間に行動を起こさせる基本と思うが、このエレメントを知り尽くしているのがニッポン放送(LF)だ。消費行動の法則AIDMAを放送活動の根底においてラジオの持つ力を実践してみせたのがニッポン放送といっていい。1984年にLFは開局30周年を迎え、4月の編成コンセプトに「いますぐ逢いたかった♡ニッポン放送」とした。「楽しさ、やさしさ、面白さ、感動――理屈ではない共感こそニューメディア時代のAMラジオのあり方であり、だから“いますぐ逢いたいニッポン放送”でありうると確信する」と当時の編成部はコメントを出している。

 そのコンセプトを実現させるために、番組改編を早朝から夕方番組に掛けて、大胆に手掛けていくが、なかでも84年度の30周年記念企画「ビックリウィーク“ラジオが変わる!こんな番組欲しかった‼”」は、番組とイベントをドッキングさせ、話題を作り出すLFならではの企画の実践であった。7月中旬に行われた1週間の放送は、さまざまなターゲットに合せ、曜日別の企画編成を採用。総合プロデューサーも各界の有名人を据えて展開した。たとえば「ティーンズ放送局」(大滝詠一P)は24時間の音楽専門放送局として展開。「レディース放送局」(橋田寿賀子P)は女性たちの感性に訴える企画とブランド品展示即売会実施。「ニュース&スポーツ放送局」(竹村健一江本孟紀P)ではニュース報道スポーツ情報の新たな試みを展開、24時間のなかにワイドなトーク・セッションを作り上げる。ほかに野末陳平渡辺美智雄船村徹嵐山光三郎などが各曜日をプロデューサーとなり、画期的な番組を放送し、多方面から大きな反響を呼んだ。

 これからのラジオはどのような形があり得るのか、さまざまな角度から実験的に取り組んでいる姿勢は、おそらく80年代以降のラジオのあり方を考えるヒントを、実践しながら会得しようとするLFならではのチャレンジ精神に満ちたものだった。そして、翌85年もこの路線を踏襲し、大胆に取り組んだ。74年以来10年以上も首都圏トップの聴取率に君臨する自信が、「また おまえか!ニッポン放送」というキャッチフレーズに現れている。85年はこのコンセプトを中心に編成全体のコンセプトにおき、局全体で取り組んでいく。「イベントを多発しラジオの活性化を求め、流行現象を創造して行く」と同局の資料にある。遊び感覚というか、面白くなくてどうする?といった雰囲気を局全体で共有し合い、メディア戦国時代のラジオを広くアピールしようという狙いだったといえよう。

 その後の編成コンセプトには86年度「もお!たーいへんニッポン放送」、87年度「今年度もニッポン放送にまかせてチョンマゲ!」、88年度「トンデモはねてるニッポン放送」といった具合である。いずれも基本は特別番組を編成、それをイベント化し、世間の話題をさらう、それも四季にわたって展開する。それらの内容をここで詳しく紹介するスペースはないが、一部に触れておこう。

 85年度のフジサンケイグループが毎年総力をあげた「国際スポーツフェア」は5月の連休中に開催、LFは会場から「ニッポン放送 また おまえか!ステーション」を設置し、放送展開すると同時に一日中イベント展開を実施した。おもしろドカン、ドカン!アニメヒーロー大集合」「輝け!パーフォーマンス・グランプリ」などなど連日展開し、まさに来場者に見せるラジオを演出してイベントラジオの本領を発揮した。こうした大型企画を夏にも番組企画として展開している。86年度は、春企画は同様に実施、夏に「もお!たーいへん放送局」と題して1か月間スペシャル企画、特集企画を組みながら大移動する生活者に交通情報をふんだんに提供する編成を組んでいる。

87年度は期間限定のイベントラジオをはじめ、レギュラー番組のイベント化に力を注ぐ。前者は「イベントならニッポン放送にまかせてチョンマゲ!」を合言葉に大型企画「コミュニケーション・カーニバル 夢工場‛87」を東京・大阪で開催している。レギュラー番組では「ヤングパラダイス」のリスナー投書から“若者による若者のためのラーメンづくり”をイベント化。日清食品と連携して商品化。そして5万個を完売。そのほか「オールナイトニッポン」を核とした大型音楽イベントを野球場で実施するなど数えきれない。88年度は1年通じて祝祭日を「ホリデイ・スぺシャル」として編成し、スポーツあり、ドラマあり、歴史あり、ドキュメンタリーありと、あらゆる分野を手掛けながら、イベントと連動できるものはすべて実施するという勢いだ。

 こうみてくると、LFというラジオ局の姿勢はFM競合時代の対策という視点よりも、メディア戦国時代にラジオがいかに生き残るかという、メディア存続を前提としたチャレンジ姿が浮かんでくる。そのチャレンジ姿勢を端的に現わしている言葉を引用しておこう。当時LFの常務取締役であった亀淵昭信は「放送批評」87年4月号にこう発言している。「俺たちはゲリラだ。野球で言えばテレビは4番バッター、3番は新聞だろう。ラジオは5番か6番か。いやそれよりも俺は1番を打ちたい。1番バッターってのは塁に出てグルグルかき回して、3番、4番に打たせてホームへ帰ってくる。そういう意味では流行の発火点、その役割をやりたいなって思う。これはずっと教えられてきたうち(LF)の伝統じゃないかと思う。」80年代に打って出たLFのさまざまな戦略戦術にはこうしたチャレンジ精神が背景にいつもあったようである。(つづく)






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ラジオの新たなかたち・私論 〔第23話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時代にどのように取り組んだか!《 Part1 》


 80年代の民放ラジオは70年代と比べ、メディアとしての存在を鮮明にしていったといっていい。特にAM局は積極的な取り組みを展開する。その要因は、?70年代よりも聴取率が低迷ないし下降気味に推移し出し、従来のあり方に危機意識を抱いたこと、?民放FMが84年には21局、89年には31局になり、本格的なAM/FM競合時代に入ったこと、?営業収益の伸び率がFMに比べAMの低さがはっきりしてきたこと、などが上げられる。こうしたAMを取り巻く環境の変化に対応すべく、ステーションのあり方や編成方針の立て直しといった基本的姿勢の変更に取り組んでいった。

「激化するメディア競争のなか、ラジオには固定観念の打破が迫られ、起死回生の企画が要求される。ラジオはメディアの先頭に立って話題づくりを起こすことが運命づけられている」(新聞「民間放送」85年10月3日号)と札幌テレビ:大森秀美ラジオ局長は記している。恐らく当時の民放AM局は媒体力低下という危機意識を背景に、新たな取り組に立ち向かう姿勢がうかがえる。そこで最も見直された視点は、民放AMがこれまでに築き上げた報道力であり、企画力であり、人材力をという特性をバックにリスナーを喚起する“話題づくり”のラジオにあったようだ。


〈 報道への力点と大人を意識したTBSラジオ 〉

  キー局といわれるTQL(TBS、QR、LF)3局の動向は、多かれ少なかれ地方局に影響を与えてきたので、まずTQLの新たな取り組みから触れてみたい。“報道のTBS”といわれたTBSは、80年代半ば生活情報の充実を図る編成方針「メディア多様化時代のなかで“信頼と共感”のTBSラジオ“をモットーに、リスナーの生活感覚に共感する“活きのよいラジオ”をめざす」と打ち出した。そして85年4月編成には全放送時間の40%もの番組改変を実施、特に注目されたのは朝スタートして夕方まで7時間半のワイド番組「スーパー・ワイド・ぴいぷる」を月〜金ベルトで編成、パーソナリティも曜日別担当というこれまでの習慣聴取、固定聴取を打ち破る戦略に出た。時間とともに変化する首都東京の出来事を、報道・情報面から随時伝えていく流れを重視した姿勢である。

 この新たな試みは、聴取率低迷という結果を招き、開始1年で打ち切られることになったが、様々な課題を提起した番組として記憶されている。生活時間とワイド番組のあり方、生活情報の取り組み方伝え方など、ワイド番組に不可欠な情報と演出の課題が提示され、その後の番組改編の度に検討し、課題を克服していく。番組は午前中の「大沢悠里のゆうゆうワイド」、午後は小島一慶起用の「一慶の歌謡大行進」という、編成は従来型のワイド番組の形態に戻るがそれぞれの課題は番組のなかで消化されていく。

 一方、深夜帯の時間にも斬新な編成番組を組む。それは“大人向けラジオ編成”で、代表番組が「ハロ−ナイト」(月―金ベルト21:00〜23:00)である。深夜ラジオといえばヤング対象の番組と決まっていたこの固定概念を一掃するような番組で、大型ニュース枠や夜間初の交通情報導入、専任ニュースキャスターの起用など、従来のヤング路線から大人路線に変え、新たな聴取者を開拓する思い切った番組編成を行なっている。

他に忘れられない番組として連続ホームコメディ「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」が月〜金ベルト15分番組として新設され大きな話題となった。また、今でも続いている毒蝮三太夫の商店街訪問の中継番組はこの頃スタートしているが、当時の番組は「土曜ワイド商売繁盛」だ。いずれも1986年のことでる。80年代のTBSラジオはリスナーとの庶民的コミュニケーションを構築しながら、報道性の重視と大人のラジオを編成の基本において、さまざまな番組編成に取り組み、はっきりしたTBSのステーションイメージを構築していったといっていいだろう。

〈 思い切って個性化を図る文化放送番組群 〉

 文化放送(QR)はどうであったろうか。85年4月編成で打ち出した番組「文化放送ライオンズ・ナイター」は番組コンセプトに「ハッキリいってライオンズびいきです」という思い切った姿勢を打ち出す。ライオンズ応援中継番組である。スポーツの客観報道を基本としていたラジオ界はビックリ仰天、論議を醸し出した。スタート当初は抗議の電話や投書が多く寄せられたが、スタッフは「どうぞ他局を聴いてください」という徹底ぶりだったという。それが功を奏し徐々に評判を高めていった。こうした番組の個性化は各番組にも現れていく。

これまでラジオは属性で分ける「オーディエンス・セグメンテーション」がリスナー分析の主流を占めてきた。しかし、成熟化した80年代は「感性によるセグメンテーション」を重要視していく。当時のQR駒井編成局次長はリスナーの「絞り込みとは、言いかえれば“感性”のセグメンテーションということです」といっている。個性化=リスナーの絞り込みを徹底した戦略だ。86年4月“海のみえるスタジオ”を設置し、番組「サントリー港区海岸1丁目」(日曜朝7:00〜8:30)を開始する。夜ではなく朝に、感性豊かな若者へ向けて、このスタジオから音楽とファッション情報を提供する狙いである。これまではスタジオを飛び出してリスナー(商店街など)を訪ねるという姿勢を、サテライトスタジオへ若者を呼び寄せようという逆の発想だった。こうした徹底ぶりがリスナーに認められていく。

QRには、個性化=リスナーの絞り込みという視点で見逃せない番組がある。86年10月スタートの「日曜の夜はTVを消して 落合恵子のちょっと待ってMONDAY」(日曜21:00〜23:30)である。“女性スタッフ”による“大人の女性”を対象とする思い切った番組で、夜はヤングという常識を破る編成であった。番組は予想通り評判を呼び、各方面から話題となった。番組は90分ワイドで、女性の関心を呼ぶ話題を多方面から取り上げた。なかでも社会性に富む事象を取り上げた「ちょっとコモンセンス」コーナーは多方面から注目され、86年度のギャラクシー賞、87年には日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞している。

 また、この番組で特質されるのは、番組を中心とした会員組織「おとな倶楽部」(有料会員)が作られ、1000人余の会員で運営されていたという。月1回のイベントと隔月の機関誌発行など、有意義な活動が展開された。この番組は90年に終了したが、現在25年も経っている。いまラジオが行き詰り、明日の世界が見出せないでいるなか、過去の民放ラジオ番組を振り返ると本当に多くの示唆を与えてくれる。落合恵子のこの番組もその1つだ。

リスナーを囲い込み、グルーピング化し、送り手と受け手が見える形で交流し、共に地域社会の貢献を目指すという活動によって、地域女性の活性化やコミュニティづくりに生きがいを見出していく、現在全国各地で求められている地域活動こそラジオがサポートできる分野ではないか。この点は「これからのラジオの視点」として重要な位置づけにあると思う。このことについては後述することになるが、こうした視点でみると「落合恵子のちょっと・・・」は、大いに参考になる。(つづく)






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ラジオの新たなかたち・私論 〔第22話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


全国に開局した民放FMはどんな存在だったのか

 さて、首都圏民放ラジオ4局による共同調査でみえてくる姿は、80年代の民放AMが70年代に比べてSIUが少々下がる傾向を示していることだ。しかし時間帯別や属性でみると高い数値を維持しており、AMの特色が放送時間帯によって聴取者の変化が鮮明になっている。特に、年齢層の高いリスナーに受け入れらえる傾向がこの資料からみて取れる。一方、JRN共同調査によるAMとFMの聴取状況は、84年から89年の5年間で確実にFM聴取が増えている。

全体で「AMをよく聴く」が26.6%から24.9%へ減りつつあり、「FMをよく聴く」が8.5%から15.0%と倍近い数値に増えている。18才〜24才の男女では特に数字が高くなっており、80年代後半は確実にFM聴取の傾向が高まっていることがわかる。
80年代の民放FMが10代後半から30代をメインリスナーにターゲッティングした方向性と一致する。若い世代は新しいものに抵抗なく取り組む性格があり、良質な音楽を自由に聴けるラジオには関心が向けられていったことは自然の流れかもしれない。

 1つのラジオ・メディアを創り上げた民放FM。なかでもエフエム東京のキャッチフレーズがマーケティング分野で注目を引いた。「FMをラジオと呼ばないでください。FM放送と呼んでください」というキャッチコピーだ。都会の香り、文化的雰囲気、上品なイメージなどをステーション・イメージとして打ち出し新鮮なラジオ・イメージを構築するため、既存のラジオ・イメージを払拭する狙いがあったのだ。都会生活に憧れるAMの若者層がFMに移っていったのは自然な流れであったといえよう。民放ラジオはAM対FMの構図を取りながら全体としてリスナーの活性化を図っていったのが80年代であったといえる。

 その一端をFM雑誌隆盛にみることができる。FM専門誌は当時4誌も発売されている。「FMfan」「週刊FM」「FMステーション」だ。最も注目された80年代中頃は平均25万部、後に情報雑誌「ぴあ」も掲載するようになり、100万部を遙かに越えるFMファンを獲得していった。FMの雑誌連動はリスナーに番組内容を詳しく伝え、好きな楽曲のエアチェックを促進させるという、これまでのラジオにはなかった聴衆方法が開発していった。そして、このメディア連動はより良き音質で聴取すべく音響メーカーによるオーディオセットの開発を促し、また音楽業界にはCD売上の増進や音楽イベントの隆盛に繋がり、ラジオ・メディアとしてこれまでにないマーケットを開拓するという、正にラジオにおける新しいメディアの構築だったといえる。これは社会の潮流である「個性を求める」消費者ニーズに適ったメディアづくりだったことがわかる。

 民放FMの番組といえば、世界旅行を夢見た番組「ジェットストリーム」を代表として、来日アーティスト生収録番組「ゴールデン・ライブ・ステージ」、クラシックでは国内国外のトップ奏者やオーケストラの生演奏を収録して綴る「オリジナル・コンサート」、あるいは洋楽邦楽のベストテン番組「コーセー歌謡ベストテン」「ダイヤトーン・ポップベストテン」など多くのFMファンに人気を集めた。
なかでもエフエム東京の開局15周年(1985年)を記念した番組企画は特に注目を集めた。それは、「デジタル・ステレオ衛星生中継、いま世界のコンサートホールから」というプラハ、ベルリン、ボストンで行われたクラシック演奏会を生中継で放送した企画番組だ。世界一流の指揮者とオーケストラの演奏を直接リスナーに届け大きな反響を呼んだ。NHK−FMも番組には力を入れ、NHK交響楽団の定期演奏はじめ、EBU(ヨーロッパ放送連盟)通して各国の室内楽やオーケストラの生演奏を放送、ポピュラー音楽では米ヒット曲集、ジャズ、ラテン音楽など他分野にわたり、音楽ファンのニーズに応えていった。

 こうした音楽に特化したラジオが可能となった社会的背景について少し考えてみたい。80年代は一般生活者に「量から質へ」の転換を促す傾向が様々な分野で進行する。「大衆から少衆へ」というマーケティングウォークマンの普及はその象徴的現象であったが、それは「自分らしさの追求」の現れで、より個人的に、より個性的な感性を磨いていく傾向を強めていった。こうした傾向は消費傾向にもはっきり現れ、当時の西武デパート、パルコなどのあり方は大いに注目された。また家庭では、たとえば音響装置にしても、父親はリビングでステレオを、子供はそれぞれの部屋にミニコンポやラジカセを聴き、それぞれが求める音楽を楽しむ姿は日常的であった。

 ラジオで音楽専門放送=FM放送が成立した背景には、国民一人ひとりの生活の質を向上させる意識と同時に、「自分らしさの追求」という社会的成熟度を示した時代要素があったからに違いない。特に「音楽」という分野がラジオという放送で成立し、「スポーツ専門ラジオ」や「演劇・映画専門ラジオ」という分野ではなかったのは、音楽が個人的趣向に求められる性格であり感性的であると同時に、いつでもどこでも接触できる文化であったことに起因するところが大きいと思う。また、日本における音楽環境も、戦後30年を経て広い範囲に普及したことにもよるだろう。洋楽といわれるアメリカ音楽やヨーロッパ音楽の浸透、家庭における子供の音楽学習、そしてステレオ機器やレコード・CDの目覚ましい普及など、音楽が個人の世界に強く深く浸透した文化であったからに相違ない。

 もう一つ触れておきたいことは、NHK−FMの放送が1970年代に全国の都道府県に開局しており、音楽を中心に番組編成し放送していたことは、FM受信機普及の役割を担う一方、ラジオ・リスナーに対してFM放送=音楽放送というイメージを創り上げる役割を果たしたことを忘れるわけにはいかない。マーケティング的にみれば、なぜ「音楽分野」がこれほどまでにラジオ化できたのか、専門化できたのか、という疑問もあるに違いないが、一般生活者の質的変化とFM放送の普及は大いに相関関係があり、80年代のメディアの特色として取り上げることができよう。いずれにしても、80年代のラジオを語る時、メディアとしてのFM放送の存在は大きく、また戦後の音楽文化を語るに際しても触れねばならない存在であった。(つづく)






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ラジオの新たなかたち・私論 〔第21話〕

・・・・・・当ブログは、暫く時間をいただいたが、再開することにします。
・・・・・・これからの民放ラジオのあり方を考える上で、過去の歩んだ道に学ぶ
・・・・・・必要があると思い、振り返っています。参考になることが多くあり、
・・・・・・これから考えていく糧にしたいと思います。


**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


個性を求める時代と民放ラジオの変化

 80年代の民放ラジオの特徴は、民放FMが全国各地に誕生し、民放AMとともに民放ラジオの聴取機会の拡大を促したことである。またラジオ業界では民放AM対民放FMの競合が鮮明になり、それぞれが「個性を求める」リスナー=消費者のニーズに応えるべく、番組開発に挑戦していった。民放FMは音楽を主軸にしながら様々な企画番組を投入、たとえば来日アーティストの徹底したライブ録音番組や世界のクラシック・オーケストラの生演奏シリーズなどを放送し、新たなラジオ・メディアの存在価値を構築していった。
 一方、民放AMは、これまでのラジオ経験を生かした番組づくり、FMにはできない番組づくりを考えの基本として、行動的な情報番組、スポーツ番組、特に報道部門には積極的に力を入れ、様々な番組を開発した。この内容はAMの番組開発のところで詳しく触れる。


〔1〕 民放FMの登場とその影響

 簡単に民放FMラジオの登場と普及に触れておこう。1969年NHK−FMが本放送を開始し、民放FMではFM愛知が同じ年、翌70年にはFM東京、FM大阪、FM福岡と4局が大都市に開局し先鞭を切った。それから12年、82年にFM愛媛を皮切りにそれ以降8年間に31局が開局。本格的な民放FM時代に入っていく。リスナーにとってラジオ番組の選択肢が広がり、より自分好みの番組を聴くことができるようになった。もちろん民放FMだけでなく、NHK−FMの全国開局も進み、より多くのリスナーに選択の機会が与えていった。

 現在のラジオ界では、一般に聴取者をリスナーというが、ネットを利用するユーザーとも深いつながりがある。リスナー=ユーザーと捉えることが多い。80年代のラジオはリスナーを消費者であると捉え、リスナー=消費者と捉える傾向が強かった。消費者とは高度経済成長で生産された商品を購買し消費する人々、すなわち消費社会の担い手たちである。これは一般の人々の1つの側面からみた表現だが、高度成長時代から低成長時代にかけてよく使われていた呼び方である。消費者の動向はスポンサーである様々な企業に影響力をもたらすため、民放ラジオ業界にとってスポンサーと同様に大きな存在であった。その動向を把握するものとして「聴取率調査」があり、ラジオ局では殊のほかその動向を気遣った。

 民放ラジオにおける「聴取率調査」は、常時全国に実施される統一調査はない。東京圏、関西圏、県別などそれぞれの民放ラジオが自主的に行っているため、民放ラジオの聴取状況を全国で判断する資料は少ない。JRN共同調査のように、ネットワーク局が共同で調査している資料は存在する。NHKが全国で行う調査もある。民放ラジオの動向を把握する時には、影響力を持つ東京や大阪のラジオ局の調査が参考にされることが多い。ここでも当時の東京を中心とした首都圏での調査を参考にして概要を伝えたい。調査を実施する会社はビデオリサーチ社という専門会社が多い。テレビとラジオの調査を実施している会社で、80年代の民放ラジオは大方この調査会社で行っている。

 民放ラジオがリスナーにどの程度聴かれているかを判断する目安は、SIU(セットインユース)を参考にする。これは全日(月〜日)12才〜59才のリスナーがラジオと接触している数値である(90年代の調査は69才まで広げている)。ここで取り上げる数字は首都圏AM4局(TBS.QR.LF.RF)が実施している共同調査を参考にする。当時この調査には民放FM局は参加していない。首都圏ラジオ全体を把握するには各ラジオ局の調整がつき、共同で調査するようになった90年代以降である。

 さて、80年代のSIUであるが、上記共同調査によると81年9.8%を境に漸減傾向がつづき、84年から89年までは平均7.0%台に減少している。時間帯別の平均値では、朝(5時〜12時)が9.0%台、昼(12時〜19時)が9.3%台を維持している。ここで大切なのは、「心の豊かさ」「個性ある生活スタイル」を求める80年代の人々がラジオを聴取する場合、自分の好みに合ったメディア選択、プログラム選択の影響を受けるので、ラジオ全体の聴取傾向をみるほかは年齢別、性別、職業別などより細分化した視点が必要であると思われる。しかし、より正確さを追求するには、AMとFMの共同調査を待つしかなかった。

 阪神地区の調査は、民放AM4局が共同調査を行っているが、首都圏と同じスペックでないため比較することは難しい。近いものとして1日1人当たりの聴取時間がある。それによると1日平均100分〜110分の聴取が80年代も維持されているようだ。しかし世代別ではヤング層が低減する傾向がみられる。恐らくFMの影響が生まれているのだろう。

 なお、上記首都圏の資料は民放AM4局が共同で年4回実施していたデータに基づいている。FM局はそれぞれ独自の調査を実施していたため、首都圏の民放ラジオ全局を表す数値とは言えないが、80年代の民放ラジオの傾向をみるには参考となるだろう。  (つづく)






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ラジオの新たなかたち・私論 〔第20話〕

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


〔物の豊かさから心の豊かさへの変化と民放ラジオ〕

 民放ラジオの歩みを振り返ると、1950年代は揺籃期であるが、すでに受信機の普及していたこともあり、新聞と同じマスメディアとしての影響力を持つようになっていた。50年代後半には全国的な普及のなかで茶の間の首座の地位を確保し、第1期のラジオ黄金時代を迎える。しかしテレビの急速な普及によってその地位を少しずつ譲り渡していく。テレビは高度経済成長下にあってその普及は目覚ましく、間もなく一般家庭ではテレビとラジオが逆転してしまう。そして苦難の時代へと移っていく。

 65年から70年代、ラジオは家族聴取から個人聴取へ新たな活路を見出し、ラジオの復興と第2の黄金時代を迎える。ワイド番組の有能なパーソナリティの登場や野球のナイター中継、若者を捉えた深夜放送など、個人を対象としたリスナーに寄り添うメディアとして変身していく。80年代はそうしたメディア価値を更に伸長させ、身近な存在のマスメディアとして影響力を持つメディアとなる。民放ラジオが現在のようなリスナーの傍にいて、社会の窓口として情報収集でき、いつでも好きなパーソナリティと会話でき、世間に開かれた窓の役割を果たすようになっていった。

 メディア論的にいうと、ラジオはマスでありながらリスナー個人とのコミュニケーションが成立するという、マス・パーソナル・コミュニケーションの世界ができあがった。80年代のラジオとは、現在のラジオが持つメディア価値(個人ユーザーを対象としたメディア)の開発開拓時期から一歩進み、安定成長期へと自ら育んでいった期間といえよう。それでは80年代が戦後と一区切りつけ、あらたな日本を模索していく社会潮流のなかで、民放ラジオはマスメディアとして社会にどんな役割を果たしたのであろうか。

 80年代社会の1つの特色は、一般生活者が社会の大きな変化のなかで“物の豊かさ”から“心の豊かさ”を求めていったという、生活感覚の大きな転換が進行した時代である。これは家庭生活から学校生活から社会生活まで、幅広く影響を及ぼしていった。“心の豊かさ”の追求は、取りも直さず生活者一人ひとりの心のあり方であり、個人の内面に帰するものである。この価値観の変化を支えていた世代は、50年代から60年代に全国の地方から大都市に移住した人々、高度経済成長時代に「金の卵」と称され集団就職で都会に移り住んだ人々とその家族たちといっていい。

 この“心の豊かさ”の追求は消費生活の面ではっきりと現れている。藤岡和賀夫は著書「さよなら、大衆。」(PHP研究所/1984年)でこう記している。彼は、戦後の豊かさイメージは所有の豊かさ、しかし身の回りには物が溢れている。人々は持つことではなく、いかにあるべきかという自分らしい豊かさを求めざるを得なくなった。「自分らしさ」を求める感性欲求が消費社会の中心的概念になっていく。そこにはもはや大衆は生まれず“少衆”という、趣向を同じくした人々によるグループとして“少衆”という概念を提示した。高度成長時代の大量生産大量消費は“物の豊かさ”の追求だが、“心の豊かさ”=“自分らしさ”に応えるには少量多品種生産と消費でなければマーケットは応えられなくなっていた。

 「自分らしさ」の背景には変貌する日本人の意識にも少し触れておく必要がある。NHKは1973年から5年毎に日本人の意識調査を行なっている。それによると家庭内での役割の変化や男女関係の意識変化、あるいは血縁=親戚関係、地縁=地域関係、会社=職場関係など社会的結びつきがさまざまな分野で弱まっている傾向が伺える。また現在を中心に考える傾向が次第に強くなり、未来志向の発想が弱まっている。こうした潮流を吉見俊哉は著書「ポスト戦後社会」(岩波新書/2009年)のなかで「戦後社会という域を越えて近代社会の地殻変動が始まっていたことを示している」と指摘している。

 現在を中心に考える発想とは、いま生きている社会のなかでいかに楽しく有意義に過ごすか、という意識であり、そのためには他人と違う「自分らしさ」に意識の中心があったのであろう。こうした社会生活の意識に対して、民放ラジオはラジオ局の多局化とラジオ番組の多様化することによってリスナーの趣向に合致する放送活動を展開していったのが80年代ではなかったろうか。(つづく)







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ラジオの新たなかたち・私論 〔第19話〕

**昭和の終わりと時代の転換期20年代(その3)**


〔専門家による戦後史としての80年代〕つづき

 1880年代を専門家はどのように捉えるか。前回は近現代史に詳しい半藤利一の見方を紹介したが、今回は京都大学教授の佐伯啓思の見方を掻い摘んで紹介する。佐伯の著書「日本の宿命」(新潮新書)によると、戦後という時代は大きく2つに分けられるという。前半が終戦から1980年代までと、後半の1990年から現在までの期間で、80年代と90年代では大きく時代が変化する。それは昭和の終焉と冷戦体制の崩壊やグローバリズムと重なっていること、また日本人の精神史的にみても、戦後という意識そのものの変化とも重なるという。昭和から平成への移行は1つの時代の終わりと始まりを伝えている。

戦後昭和の前半期は、民主化平和憲法、経済発展などは、第2の「文明開化」のようなものであった。しかしその成功の過程では、意識しようとしまいと「アメリカ」という存在があった。日米安保体制という軍事上の依存があり、圧倒的な経済力が日本を支え、民主主義や自由主義アメリカをお手本とした。それだけではなく、アメリカ的豊かな生活をモデルにして貪欲に働いたのではなかったか。アメリカという影は歴然と存在していたと思う。
佐伯はこうもいう。明治の「第1の文明開化」を成功させたように、戦後は「第2の文明開化」を見事に成し遂げる。

一方、国民の精神史から眺めると、欧米に追い付き追い越せという物質的豊かさを求めて、寸暇を惜しみ働いた世代、高度成長から安定成長を経験し豊かになったが、その中心になった世代には戦争犠牲に対する“深い思い”というものがあり、この思いが残る限り「戦後」の繁栄を無条件で受け入れ、肯定することはできない意識があった。80年代とは経済繁栄のなかにこうした「戦後の精神」も終わりとなっていったという。

佐伯は戦後の前半と80年代を以上のように語っているが、半藤一利と通じるところがある。戦後の時代の転換期として80年代を認識することは、これから時代を考えるうえで、貴重な示唆を与えてくれるであろう。これまで80年代の社会状況を多少多めに触れてきたが、60年代のアメリカに追付け追い越せの高度成長期、70年代の低成長ながら豊かさを追求したポスト高度成長前半、そして80年代はアメリカに経済の面で追付いた我々は新たな価値観を持たねばならない時期ながら、後半はバブルに浮かれる時代を過ごしてしまった。

 こうした稀にみる体験から、後の長期不況を予期することなく、バブル景気の崩壊という現実を迎えた。バブル景気崩壊という予測は専門家の間で察知されていたのであろうが、一般庶民にはある日突然訪れたという印象が強い。こうして国民的な浮いた気持ちがツケとして長い不況を経験することになる。この珍しい体験の時代に、民放ラジオはどんな活動をし、何を社会に提供していったのか、詳しく見ていく必要がある。なぜならば、この時期の体験が、この後続くことになり長期不況(失われた10年)と現在苦しんでいるラジオの衰退状況の発端を見て取れるかも知れないからである。(つづく)









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